文鳥
9.「黄泉路」
その日の於荷屋は、半年振りの荷卸があるというので、朝から目の回るような忙しさだった。
卍丸とて例外ではない。いつもの雑事を片付けた後、普段は余り行く事のない店表の手伝いに駆り出された。
店では足元が台帳と首っ引きで格闘している。
届いた荷物と台帳を突き合わせながら、次々と荷を解いていく。今日はおそらく一日これにかかりきりだ。
今日は絹の琴の稽古日であったが、店の者が一斉に忙しくしている中、
自分の稽古事に卍丸を付き合わせるのには気が引けるのだろう。
「たまにはおさらいも必要よ。今日のお稽古はお休みします」
と絹は昨日のうちに卍丸に告げていた。
言葉通り、絹の部屋からかすかに琴の音が聞こえてくる。
卍丸は荷卸の日が好きだった。
確かに忙しいには間違い無いのだが、この日一斉に主人や足元が半年かけて買い付けてきた反物や、
仕立の着物が届けられると、於荷屋は普段より一層活気に満ち溢れたものとなる。
それこそ遠国から届けられる珍しい品もあり、色とりどりの荷は目にも鮮やかだった。
毎年少しずつ流行の柄や仕立なども違っていて、それを語り合う人々の口も滑らかだ。
そんなわけで今回の荷卸にも、朝から卍丸は忙しく立ち働いていたのだった。
「……卍丸」
明四ツを少し過ぎた頃であろうか。店表から屋敷に行きかけた卍丸を、同じ奉公人仲間の少年が呼び止めた。
「どうした?」
「お前に客が来ているぜ。名乗らなかったが、あれ、前店に来た、カブキ団十郎じゃあねえのか?」
カブキが?卍丸は驚いた。
カブキは菊五郎の一件以来、決して店に来ることは無かった。
それどころか卍丸が誰かといる時は、声どころか姿すら見せなかったと言うのに。
「ありがとう。ちょっと覗いてくるよ」
「金貰っちまったから黙ってるけど、卍丸、お前、面倒に巻き込まれてんじゃあねえのか?」
奉公人仲間は小声で卍丸に問いかけた。
「違うよ。カブキってそう悪い人でもなかったよ。長居はしないから、俺の後の荷解きを頼むよ」
皆極楽みたいな反応をするんだな、と卍丸は苦笑しながら言われた場所へ向かう。
カブキは壁に凭れながら、通りの方を眺めていた。
その横顔は今まで卍丸が見た事の無い表情で、直ぐに声を掛けるのがためらわれた。
「……カブキ」
「おう、来たか。店の方まで押しかけちまって悪かったな」
そう言って卍丸の方を向いたカブキの顔は、いつもの笑顔だった。
「構わないけど、何か、あった?」
「イヤ、何かあったって訳じゃねぇ」
「……」
その答えに卍丸の不安は一層煽られた。何も無くてこんな風に訪ねる訳がないのに。
口を閉ざした卍丸に、カブキは少しバツの悪そうな顔をして続けた。
「何、実は、しばらくは近江を離れる事になりそうだからよ、ちょっくら顔を出したって訳だ」
「近江を……何処に行くの?何で?」
卍丸は驚きを隠せずにカブキに問いかけた。
「京だ。まあ、理由はくだらねえこったからイチイチ言わねぇけどよ、
まっ、そんな訳でしばらく留守にするけど、達者でな」
カブキは相変わらず軽い口調でそう告げると、長剣を肩に担ぎ直した。
「えっ。もう、出立するの?そんなに急ぎの用事なの?」
卍丸に立て続けに問われて、カブキは少々驚いた。
「まあ、急ぎと言やぁ急ぎだが、今すぐってつもりでもねェ。今晩出立するつもりでいたからな」
「今晩……じゃあ、カブキ、出立する前に、もう少し話を聞かせてよ。」
言った後、卍丸は少し考えて言葉を続けた。
「俺、今日は荷卸の日で店を開けられない。屋敷の庭に炭小屋があるから、そこに出立前に来て。
今の時期なら炭は使わないから、薪置き場に使ってる。今日の分の薪なら俺が今朝用意し終わっているから
明日の朝まで炭小屋に来る人はいないんだ。いつでも好きな時間に行っていいよ。
夕刻になっちゃいそうだけど、俺は荷解きが終わったら、なるべく早く行ける様にする。」
「卍……」
「カブキが来なくても、俺、待ってるよ」
卍丸はそう言うと、カブキの目をひたと見据えた。騒ぐでもなく取り乱す風でもなかったが
その目には有無を言わせぬ力があった。カブキは観念するように少し笑うと
「判ったよ。これと言った用もねえしよ、言葉に甘えて今から小屋を使わせてもらうぜ。
誰も来ねえんじゃ少し眠らせてもらうぜ」
昨夜はあれからどうにもよく眠れなかった。平静を装っていてもやはり気持ちが昂ぶっているらしい。
かといってもう、女達の所へ寄るつもりは無かった。狙いが自分なら何時襲撃されてもおかしくなかったからだ。
少なくてもこの一件が片付くまでは、女達と関わらない方がいいだろう。どんな巻き添えを喰うか判らない。
今日は卍丸のところへ顔を出した後、適当な宿で仮寝して、人目の無くなった夜に出立しようと思っていたのだ。
宿が於荷屋の炭小屋に変わっただけで特に支障は無い。
「じゃあ、俺が場所を案内する。行こうか」
卍丸はそういうと、カブキの前に立って歩き始めた。
さすが大店は、炭小屋までが小奇麗だった。
宿までとは行かなかったが、身を潜め、仮寝するには十分だ。
カブキは元々どんな場所でもこだわらない方だが、思っていたよりはるかに快適だった。
手早く卍丸が、カブキが落ち着ける場所を整える。ひと一人横たわれる場所を作り、筵を何枚か重ねた。
「布団と言うわけには行かないけど、これで勘弁して」
「いや、これで十分だ。じゃあ、早速だが横にならせてもらうぜ」
言うがカブキは長剣を立てかけると筵の上に横たわる。
卍丸はそれを見届けると再び作業に戻っていった。
(俺は何だって卍丸のところに来たって言うんだ。アイツは関係ねえじゃネェか)
とカブキは寝返りを打ちながら一人ごちた。
目を閉じると、取りとめもない考えばかりが浮かんでくる。
やはり自分は、自分が思うほど京行きの一件を軽くは見ていなかったらしい。
二度と近江に戻れないかもしれないと、心のどこかでは思っているのだろう。
だから夕べ柄にもなく、小真木に情けをかけて顔なんぞ見ちまったんだ、とカブキは苦笑いした。
しかし今はとりあえず眠るのが先と、雑音をひとまず頭から追い出す事に専念してきつく目を閉じた。
ややあってカブキは目を覚ました。少しはまどろんだらしい。
日は夕刻に差し掛かっていた。少し薄暗くなった小屋の中には当然、自分以外誰もいない。
身を起こすと、枕元に先程にはなかった包みが置いてあるのに気が付いた。
包みを開けてみるとにぎりめしだった。朝炊いた飯を握っておいて、昼用に味噌をつけて焼いたものらしい。
何時の間にか卍丸が置いていったのだろう。
(全くソツのねぇ奴だ。)
そういや、今朝から碌なもんも喰っていなかったな、とにぎりめしをひとつほおばった。
(旨いな……)
小屋の外からは、荷を解いている於荷屋の従業員達のにぎやかな声が聞こえている。
その中には卍丸の声も混じっていた。
カブキはにぎりめしをほおばりつつ、明かり取りの窓の前に立った。
従業員達は皆忙しく立ち働いていたが、中でも卍丸はくるくるとよく動いた。
手際よく荷を解いては、中身を丁寧に取り出し、仕分けした商品ごとにそれぞれの保管場所へ運ぶ。
それらの流れが全て頭に入っているようだ。てきぱきとしていて動きに無駄がない。
手代が下働きの卍丸に作業の内容を確認することすらあった。従業員達と卍丸は良く笑い、よく働いていた。
カブキは眩しそうに卍丸を目で追いながら、何故自分がここに来たのか
卍丸に何を言おうとしていたのかを自分に問い続けた。
荷が片付いたのは日が暮れる頃だった。
卍丸はカブキが気になったが、荷が片付いたからと言って直ぐに自由な時間になるわけではない。
その後は屋敷の雑用が待っているのだ。
自分の仕事を片付ると夕飯も取らず、卍丸は直ぐにいとまを貰った。
早々と退散する卍丸に皆
「今日は荷卸で大変だったからな。お疲れさん」
と声をかけ、怪しむ者もいなかった。
卍丸はそっと屋敷を抜け出した。足音を忍ばせつつすっかり日が暮れた中を炭小屋へ向かう。
カブキがもう出立してしまったのではないかと、そればかりが気になった。
炭小屋の扉をそっと開ける。
「……カブキ、いるの?」
卍丸は抑えた声で闇の中に声を掛けた。
「おうよ、今終わったのか。大変だったな」
と闇の中から普段のカブキの声が聞こえてきた。卍丸は思わず安堵のため息をついた。
声に向かって足を進める。
「お前、もう、見えてネェんじゃねえのか?」
とカブキが心配そうに声をかけた。
「見えない事は見えないけど、こないだみたいな知らない場所じゃないから。
それこそ屋敷の中は、目をつぶったって歩けるよ。」
声のするほうに顔を向けて、卍丸が笑いかけた。
「……それで、京へ行くって話、何だってそんなに急に決まったの?カブキの縄張は近江じゃなかったの?」
早速と言った感じで卍丸は再び問いかけた。カブキは
「何、昼も言ったが大した用じゃねえ。心配するこっちゃねえよ」
と軽い口調で諌めようとしたが、卍丸は引き続き
「大した用じゃないのに、わざわざ俺に顔を見せに来たの?」
と今度はにこりともせずに言った。
「俺、カブキが軽く話していても、実の所、話の中身は言葉と違って軽くないって言うのが少し判ってきたんだ。
わざわざ俺の顔を見に来てくれたなら、話してくれてもいいんじゃないか?」
と、見えるはずのない目でカブキをひたりと見据えた。有無を言わさない目の光。昼間と同じだ。
コイツは、嘘をついたり、その場しのぎを言っても納得しないだろう。
ため息を一つついてから、カブキは事の顛末をかいつまんで話し始めた。
話を聞くあいだ、卍丸は一言も口を差し挟まなかった。
カブキが全てを話し終えると、しばし沈黙した後
「それで、俺に手伝える事は?」
とだけ静かな声で聞いてきた。
カブキは卍丸をじっと見つめた。
先程卍丸は、カブキの事が少し判ってきたと言った。それならばカブキも卍丸について判った事がある。
それは、きっと卍丸がこの話を聞いたら、こんな答えを返してくるだろうという事だった。
短い付き合いではあるが、卍丸という人間は、他人の厄介事を見過ごせない気質(たち)だと判った。
ましてや命のやりとりをするとなったら、黙ってカブキを発たせるはずがないと、カブキは薄々感づいていた。
(俺は、その卍丸の気質に付け込んで、卍丸を京へ連れて行くつもりだったのか)
と、日中卍丸を待ちながら、カブキが自分に問いかけていたのはその事だった。
ここでカブキが卍丸に助太刀を頼んだら、一も二もなく卍丸は引き受けてくれるだろう。
例えそれが、於荷屋を後にする事になったとしてもだ。
確かに卍丸が助太刀を受けてくれたら、こんなに心強い事はない。
だがしかし
「ねえよ」
とカブキはそっけなく卍丸に返事を返した。
カブキ今ここにきて、はっきりと自覚した。
きっと自分は心の底で、卍丸のその答えを期待してここに来たのだ。
そして、卍丸の答えを貰ったら、おそらくそのまま京に連れて行くつもりだったのだろう。
―――――昼間の卍丸を見るまでは。
店で手代達と忙しく立ち働く卍丸は生き生きとして眩しかった。
あの、日の光の差す明るい場所が、卍丸の住むべき世界なのだとカブキは思い至ったのだ。
剣を握り締めたまま、見えない目で壁の隙間に蹲るような場所は、卍丸が本来居るべき所ではない。
コイツはこの店の中で取り立てられ、いづれは於荷屋の婿にもなるだろう。
自分が住むこの世界に卍丸をこれ以上引き込む事はできないと
働いている卍丸の姿を見ながらカブキは痛いほど感じていた。
「俺が今日ここに寄ったのは、うるさくしていた俺の姿が急に見えなくなって、
お前に無駄に心配をかけんじゃねえかと思っただけだぜ。
何ぁに、さっきも言ったが大した事じゃねえ。黄泉は俺には無下に手出しできねえって言ったろう?」
「……カブキは……」
カブキが話を終える前に卍丸が話し始めた。
「カブキは実の所そう思ってないんじゃないの?
俺、カブキたちの世界の力関係はよく判らないし、黄泉って人がどんな人かも知らない。
でも、京みたいな大きな町を取り仕切っているんだからそれなりの勢力があるんだろ?
カブキは、今は二人の殺しだけど、それが堤防に開いた穴みたいに、そこから京の勢力が流れ込んで
後で取り返しのつかない程、京の奴等が近江で暴れまわるのを心配しているんじゃないか?
そうだとしたら、カブキはそれを止める為に、京へ、それこそ命懸けで向かうつもりなんだろ?
だからこそ、今日、カブキは俺の所へ顔を出しに来てくれて、こんなに遅くまで俺を待っていてくれたんだ。違う?」
痛いところを突かれてカブキは黙り込んだ。
聡い奴だぜ。コイツが小真木みたいならまだ扱いやすいんだがな。
「黄泉が無下にカブキに手を出さないって言うけど、そんなもの当てになるもんか。
京は何かはかりごとがあって近江に手を出してきたんだ。
きっと、三年橋の比なんかじゃない。そんなところへ一人でカブキを行かせられないよ」
「卍丸」
今度はカブキが卍丸を遮る。もう、言葉に迷いはなかった。
「卍丸、俺は今までお前の腕に惚れて目をかけて来た。
付き合ってみりゃあ中々お前は面白ェ奴で、正直お前と居るのは楽しかったぜ。
だがな、卍丸、お前の居るべき場所は俺の世界じゃあねえんだ」
飛ぶ空が違う―――――
以前卍丸が漠然と思った事を改めて目の前に突きつけられた気がした。
「お前がどんなに剣の腕が立ったとしても、それは於荷屋さんの為に使うべきだ。
お前はこれ以上、俺の側に来ちゃァいけねえ。
俺達の世界に入ってきちゃいけねえんだよ。」
ふいに空気が動く気配がした。もう発ってしまうのか。
卍丸は無意識にカブキの声がした方に手を伸ばした。
しかしそこには冷たい空気があるばかりだ。
(カブキ、カブキの姿が見えないよ)
卍丸は無性に心細くなり、カブキを探して手を泳がせた。
立ち上がろうとしてぐらつき、転びそうになった瞬間、カブキの手が伸びてきて卍丸の腕を取った。
だが今日のカブキは、あの晩のように卍丸を包み込んで安心させてはくれなかった。
卍丸はカブキの手を掴むと、震える声を抑えてカブキに言った
「カブキ……俺たち、又、会えるんだよね?」
カブキは卍丸の顔を見て息を詰まらせた。
(畜生。何て顔してやがる。一世一代の決心をしたってのによ、このまま攫って行っちまいそうだぜ)
今度は幻ではなく、この卍丸の顔が脳裏をちらつきそうだ。
そうだ。カブキは今更ながら自覚した。俺は卍丸を連れて行きたかったのだ。
京ではない。ここから、もっと遠いどこかへ。
故郷の小さな村と、奉公先の店しか知らないこの文鳥に、もっと広い世界を見せてやりたかったのだ。
(だがしかし、きっとそれは俺の一人よがりって奴だ)
卍丸の幸せは、卍丸が尽くし抜いた、この於荷屋にこそある筈だ。
カブキは、卍丸の夜目がきかなくて良かった、と不謹慎ながら思った。
今、俺がしている顔を、コイツに見られたくねェ。
又空気が動く気配がした。香の匂いが強くなって、卍丸はカブキの気配を強く感じた。
触れられるのかと思い、カブキの腕を待った。だが香りは急に遠くなった。
がらり、と戸が開く音がして、外気が小屋に流れ込んで来た。カブキの残り香が飛んでいく。
「カブキ!」
「卍丸、お前にはお前の世界がある筈だ。お前はそれを守れ。
俺は俺の世界を守る為に、ちいとばかり行って来るぜ。
何ぁに。心配するな。俺が戻ったら又、鰻でも食いに行こうぜ」
カブキの声は扉の向こうからする。卍丸は扉に向かったが、無論何も見えなかった。
「カブキ!」
卍丸は闇の向こうに呼びかけた。
しかし、今度は返事は戻って来なかった。
卍丸は力なく扉に背をあずけて座り込んだ。
見えない筈の目の裏に、鳥籠の柵が見えたような気がした。