文鳥
7.「路地裏」
向こうから於荷屋の絹と、用心棒の卍丸が連れ立って歩いてくる。菊五郎はそれを認めると、わき道に身を隠した。
自分が無意識にとった行動に気が付くと、菊五郎は無性に腹が立ってギリギリと奥歯を咬み締めた。
(何だってこの俺が、あんな小僧からこそこそと、負け犬みてえに身を隠してこんな路地裏に入らなきゃならねぇんだ。)
今、菊五郎は全く困った状態に追い詰められていた。
カブキを仕留めそこなった一件は、おおっぴらに語られる事はないにしろ、人から人へ囁かれ
いつの間にやら尾ひれまでついて、カブキ団十郎の新たな武勇伝に加えられていた。
自分はあの日、卍丸を追っていったのだが、残った面子はカブキに足腰も立たないほど叩きのめされたらしい。
もう一度と仕切りなおそうと仲間に話を持ちかけても
『お前の話に乗ってこのザマだ。お前こそ卍丸とかいう餓鬼一匹仕留められなかったじゃないか。』
とあしらわれ、一家の中ですっかり孤立してしまう羽目となった。
一層腹が立つのは、その件についてカブキが自分に何にも言ってこない事だ。
カブキは翌日、菊五郎を見ても、傷だらけになった舎弟を見ても、咎める事も問いただす事もしなかった。
いつもの様にふざけたような笑みを口の端に乗せたまま、一瞥しただけだ。
(あの野郎。俺たちなんざ取るに足らねえとでも言うつもりかよ。)
そもそもカブキ一人なら三年橋で命を取る事ができたはずだ。
そこへ無関係な卍丸の野郎がしゃしゃり出て、助太刀なんぞしやがるから俺の計画が狂っちまいやがった
「こんな羽目になりやがったのも、どいつもこいつもカブキと、あの卍丸の所為だ。このままじゃ済まさねぇ。覚えてやがれ」
と、涼しげな(と菊五郎には見えた)顔をして大通りを行く卍丸を、路地裏から暗い目で睨めつけた。
「おや、これは菊五郎兄貴じゃないですか。」
菊五郎に後ろから声を掛けてきたのは、菊五郎を兄貴と慕う角太郎である。二人は元々同じ親分の傘下であった。
「何でぇ。角。今手前にゃ用はねえ。失せやがれ!」
角太郎も三年橋の一件に加わっていた。菊五郎と一緒に卍丸を追っていったので無傷ではあったが
カブキと卍丸の腕前を見て以降、すっかり怖気づいてしまっていた。
「兄貴。そりゃあ、もうあっしはカブキ親分に逆らう気はありませんけどね、あっしの兄貴は変わらず菊五郎兄貴なんですよう」
薄笑いを浮かべて角太郎は寄ってくる。フン。この意気地なしの負け犬野郎。
「そうそう、この間、カブキの親分と卍丸が連れ立って鰻やに入っていくのを見ましたよ。」
何か話の接ぎ穂をと思ったのだろう。思いついたと言った感じで角太郎は語り始めた。
菊五郎は少々驚いてその話を聞いた。
あいつら、三年橋の様子では、さほど関わりのあるようには見えなかったが
連れ立って飯を食いに行くとは以前から繋ぎがあったという事か。
イヤ、あいつらは俺がカブキを於荷屋に案内するまでは確かにお互いを見知ってはいなかった。
という事は、図らずも三年橋の一件が、あいつらに繋ぎを作っちまったって事か。
(ちっ。忌々しいこったぜ)
「あっしも同じ店にいたんですが、いや、二人連なって入ってきたもんですから慌てて隠れたんですがね。
へへ。別に隠れる必要も無いんですが可笑しな話ですよね。」
「つまらネェ話してんじゃねぇぞ。角。用がねぇなら俺は行くぜ」
「まあ、まあ。で、隠れながらつい、こう、聞くとはなしに二人の話が耳に入ったんですがね、ちいと気になる事を言ってましたよ」
「気になる?」
三年橋の事か?興味を引かれて菊五郎は聞き返した。
「へぇ。何でも『文鳥丸』とか『鰻は目に良いから』とか何とか。何なんでしょうかね。あいつ、卍丸て言うんですよね?」
首をひねりながら話す角太郎を見ながら、菊五郎は三年橋での卍丸の様子を思い出していた。
いや、正確には三年橋から去っていく卍丸の後姿を。
そういやあの野郎、やたら足元がおぼつかない感じだったな。あちこちにぶつかりながら走ってやがった。
鰻……目……文鳥……鳥……?
急に目の前の雲が開けたかのように、ある答えが菊五郎の脳裏に閃いた。
「……!……成る程な……!」
三年橋の一件からずっと引っかかっていた部分が、胃の腑にすとんと落ちた感じだ。
(おかしいとは思っていたぜ。卍丸があのまま三年橋でカブキと一緒に立ち回ていりゃあ
今頃俺だって半殺しにされてただろうに、何だって途中で逃げたりしやがったのか。)
「成る程って……どう納得いったんですかい?菊五郎兄貴」
「くくく。つまりな、角。あの野郎……鳥目だったのよ」
「鳥目って、夜になると目が見えないって奴ですか?えーと、どっちがですか?」
「馬鹿野郎!卍丸……文鳥丸のほうに決まってんじゃねぇか!……そうか、そういう事なら手の打ちようもあるってもんよ」
「……菊五郎兄貴……あっしはもう、この件に関わるのはお断りしますよう」
「うるせぇ!!誰も端っからテメエなんぞ当てにしてねぇよ!!」
とはいえ、今の俺じゃ、いくら話を持ちかけても一家の中で乗ってくる奴はいないだろう。
あの中じゃあ駄目だ。もっとしっかりと力になってくれそうな者はいないのか。
「そうだ、あの方なら……」
あの方なら話の持っていきようによっては、これ以上無いくらい力になってくれるだろう。
但し、失敗すれば俺の命も無いだろう。三度目は無いという事だ。
それがどうしたと言うのだ。
仲間からの信頼も地に付き、忌々しい餓鬼や甘っちょろい親分から見下されてる今の自分。
負け犬みたいに路地裏で縮こまってる今の俺より悪い状態なんてあるもんか。
どうせ三年橋で亡くしちまってた命かも知れねえんだ。今更惜しがってどうなるもんでもねぇ。
菊五郎は思い立ったように、おろおろとした角太郎に背を向けると、路地裏から何処へとも無く歩み去っていった。
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絹が琴の師匠の家に入っていく。
卍丸はそれを見届けてから門の前に腰を落ち着けた。
そうしてから何とはなしに目を大通りに泳がせる。俺は、待っているのだろうか。
「きょろきょろしやがって、誰か探してんのか?」
声は大通りからではなく、自分の背後から聞こえた。からりとした声に胸が跳ねる。俺はやっぱり、待っていたらしい。
「探しているという訳では……ただ、何となく見てただけだよ」
心中を見透かされそうで怖い。出来るだけ表情を取り繕ってから、卍丸はカブキ団十郎に顔を向けた。
「おう、今日は琴か?大店のお嬢さんてのも中々大変そうだな」
卍丸の心中をどう思ったのか、カブキは相変わらず軽い口調でひょい、と門の向こう側を覗く。
二人で連れ立って鰻を食べに行ってから数日が経っていた。
それからこんな風に、卍丸が一人で絹を待っていたり、先日のように使いで町に出ると、いずれからともなくカブキが声を掛けて来た。
但し絹が一緒だったり、他の奉公人が一緒だったりする時には姿も現さない。
(カブキなりに気を使っているのだろうか)
と卍丸は思う。ふざけているように見えて、実の所カブキは、それと気づかせないほど細かい心配りの出来る男だと判っていた。
『カブキ団十郎に関わるな』
と極楽の声がちらりと頭をよぎったが、今の卍丸にそんな事はできそうになかった。
カブキはこれといった話をしていく訳ではない。ただ、卍丸の隣に腰掛けて、取り留めのない話をしていくだけだ。
それは卍丸の知らない隣国の話であったり、市井の話だったり
時には自分の武勇伝だったりした(武勇伝に関しては、話半分で聞いておこう、と卍丸は思った)。
しかしそんな些細な事が、白川村と、於荷屋しか知らなかった卍丸にとっては堪らなく楽しかったのだ。
カブキは自分を文鳥と呼んだ。それは何気なく選んだ言葉だったのかもしれないが
今思えば、この鳥籠に飼われている小さな鳥の名が、正に自分にふさわしく感じられる。
自分が文鳥ならば、カブキはさしずめ自由に空を飛んでいる鳶だろう。天高くくるりと輪を描いて、地上を煙に巻いている。
(所詮、同じ鳥でも、飛ぶ空が違う、という事か)
それでも卍丸は、『空のようだ』と思った蒼い眼を見ていると
その時だけは、まるで自分までもが自由に空を飛んでいるような気持ちになるのだった。
今日もそんな風に半時程がが過ぎたろうか。
絹の琴の音が止み、師匠と何事か話す声が聞こえてきた。
「おっと。お嬢さんはそろそろお帰りの様だ。じゃあ俺はそろそろ退散するぜ。またな」
さっと腰を上げてカブキは来た時と同じ様に唐突にいなくなる。
「うん……」
唇に乗せた言葉が、カブキに聞こえたのかは判らない。
「……また……」
名前の付けられない気持ちを持て余したまま、卍丸は師匠の門の前で一人呟いて立ち尽くした。
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そこは屋敷と言うよりはもはや城の様だった。
場所は近江と京の境にある荒地である。
豪奢な屋敷は草木も生えない小高い丘に、地理を活かし要塞のようにして建っている。
丘の中途中途に離れがあり、それらが一つの城の様になっていて、なまなかな事では進入もできそうに無い。
建物の主は見た目にはまだ若い青年であった。
紅く長い髪を背中に垂らしている。細い鼻梁と、血の気の無い薄い唇は、整っていると言っても良い顔立ちだが
覗いた瞳はぞっとする程冷ややかだ。
男は、丘の一番高い場所に建つ本屋敷の大広間で、物憂げなしぐさで脇息に寄りかかり煙管をふかしている。
そこへ手下の男が「黄泉様」と襖の向こうから声を掛けた。
黄泉と呼ばれた男は眼だけをそちらに向け
「何だ」
と瞳に負けないほどの冷ややかな声で襖の向こうに返事を返した。
「近江の火の一家、カブキ団十郎の舎弟を名乗る男が
黄泉様にお目通りを願っておりますが、いかが致しますか?」
「カブキ団十郎?」
黄泉の眉がわずかにひそめられる。
「さて、あの男に掴まれる様なものは無いはずだがな。さりとてあやつが私に何ぞ用とは更に考え辛い。
……よかろう。通してみろ」
脇息に寄りかかったまま、相変わらず物憂げな調子で客を迎える。
襖が開けられた時、そこには見知らぬ金髪髷の男がひれ伏していた。
「失礼します」と金髪髷が平伏したまま発した。
「あっしは近江、火の一家、カブキ団十郎舎弟菊五郎と申します。
この度は根の一家親分、黄泉様にお願いの儀がございましてまかりこしました。」
黄泉はこの、菊五郎と名乗った見知らぬ男を、煙管をふかしたまま何の感情もこもらない目で見下ろした。
(さてこいつ、どうしたものかな。)
そして盆に煙管の灰を、カン、と落として話の先を促した。