文鳥  

6.「鰻」

流石にまだ使用人達も起きていないようで、於荷屋の勝手口も堅く閉まっていた。

卍丸は半ばホッとして、外壁を乗り越え、奉公人部屋に向かう。

自分の部屋へ続く廊下を、忍び足で歩いていると、途中の障子がガラリと開いて、首根っこを掴まれたまま、部屋に引き込まれた。

「極楽……!!」『何処へ行っとった!卍丸!!』

極楽が小声で卍丸を詰問する。

『ご……ゴメン』

『ゴメンじゃ判らん!夕べは大変じゃったぞ。おぬしの姿がないとちょっとした騒ぎになって

ワシが適当に【卍丸は具合が悪くてワシの部屋で臥せっとる】と言ったら

絹お嬢さんが直々に看病させてくれとワシの部屋まで来てな。

顔も見せられない程寝ついとる、と言ってお帰りいただいたが……』

『お嬢さんが……』

『卍丸、おぬしその目で一晩中何処におった。心配したんだぞ』

極楽の目は赤い。

卍丸の夜目がきかない事は、極楽には随分昔に話してあった。

夜になっても戻らない卍丸を案じて、一晩中起きて待っていたのだろう。卍丸は申し訳なさと有難さで頭が下がる思いだった。

『……ゴメン。迷惑かけて。』

きちんと正座をし、両手をついて極楽に頭を下げる。

ややあって極楽が口を開いた。

『……女か?』

その言葉に、びくりと反応した卍丸が、真っ赤になって首が千切れるほど振る。

『な、何言ってるんだよ!違うよ!!』

言って俯いてしまった。

(おやおや。からかうつもりで言ったんじゃが……この様子じゃ満更でもないのか?)

極楽が意外と言う様に目を丸くする。

『違うんだ。実は……』

と言って卍丸は、昨日の一件を極楽に向かって話し始めた。

 

話を聞き終わった極楽は、苦虫を噛み潰したような顔をしたまま黙り込んだ。

「心配かけてゴメン。」

沈黙に耐え切れなくなった卍丸が口を開く。極楽はようやく重い口を開けた。

「卍丸……もう、カブキ団十郎とは関わるな。」

「えっ?」

そんな言葉が出るとは意外だった。無断で店を空けた事と、夜に無茶をした事を咎められると思ったのに。

「大丈夫だよ、極楽。カブキさんは、言われてる程悪い人では……」

「卍丸。」

もう一度諭されるように言う。

「カブキが世間で言うチンピラではない事は、この間の一件でワシも判った。

だがな、アイツが渡世人という事に変わりは無いんだぞ」

「……」

「お前が、火多の卍丸なら、どんな輩と付き合おうがワシは咎めん。しかし今のお前は於荷屋の奉公人だ。

ヤクザ者と関わり合いになってはいかんのだ。それが、大店を背負うという事だ。卍丸。」

卍丸は言葉を失った。

そういう事なのだろう。

自分は7歳からこの於荷屋に奉公に上がって以来、それこそ身を粉にして於荷屋に尽くして来た。

それが自分のみならず、母の命をも救ってくれた大旦那への精一杯の恩返しと心得ていたからだ。

その於荷屋に迷惑がかかるとなれば、むろん極楽の言う事を聞くべきなのだろう。実際今までそう振舞ってきた。

卍丸は半ば自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ出した。

「判った……極楽。迷惑かけて、ゴメン」

「判ればいい。何にせよ、怪我が無くてよかった。お前、今日はどうするんだ?」

「今から寝ると却って仕事に遅れそうだから、このまますぐに水汲みに行くよ」

「眠らんで大丈夫なのか?」

自分こそ赤い目をして、極楽は卍丸を労わる様に尋ねる。卍丸の胸が痛んだ。

「実は少し眠ったんだ。お仕置き覚悟で帰ってきたのに、極楽のお陰で助かったよ。本当にありがとう」

まさか『カブキ団十郎に抱かれたまま眠ってしまった』とは言えず、少々不自然に話を切り上げて卍丸は立ち上がった。

続き廊下への襖を開けると、日はすっかり上がっていた。

後ろ手で襖を閉じた卍丸は、しかし極楽に応えた言葉とは裏腹に、心の奥でもう一度呟いていた。

(でも、極楽、カブキは皆が言うような人では……)

 

水汲みを済ませ、朝食前の掃除をしていると、どこからか卍丸を呼ぶ声がした。

「卍丸」

鈴を鳴らすような声で名を呼ばれ、卍丸は振り返った。

池の向こうから絹が来るのが見えた。

絹は一斤染めの小袖を纏い、浅黄色の帯を締めている。派手さは無いが高価な物だと一目で判る。

清楚な絹のたたずまいにそれは良く似合っていた。

少し頬を上気させながら、軽い足音を立てて絹は卍丸に走り寄った。

「もう具合は大丈夫なの?卍丸」

「はい。夕べは直々においでくださったと極楽に聞きました。ありがとうございます」

大店の一人娘が、奉公人の見舞いを申し出るとは尋常な事ではない。絹の一途な瞳が眩しかった。

後ろめたさから、卍丸はそれ以上絹の目を見つめ返す事が出来ず目を伏せた。

(卍丸が視線を逸らすなんて……今までには無かった事だわ。)

絹はその様子をそっと伺いながらもそれ以上は何も問わなかった。

(私の知らない所に卍丸が行ってしまう。卍丸、私をどうか置いていかないで)

半ば祈るような気持ちで絹は

「余り大事にならなくて良かったわ。これ……心配しているだけでは気が滅入るので作りました。お守りよ」

と、懐から赤い匂袋を差し出した。

「お嬢様、こんなものを頂くわけには」

慌てて押し返す卍丸の手を、柔らかい絹の手が包んだ。

「お願い。受け取って。卍丸は私の……」

言って絹は少し唇を咬んでから

「大事なお兄様なんですもの」

と笑った。

笑ったような、泣いたようなその顔に、卍丸はそれ以上言葉を続ける事が出来なくなってしまい

「……ありがとうございます。では、これを絹お嬢様と思って大事にお預かりいたします」

と言って匂袋を受け取り、懐に押し抱いた。

 

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今日は絹の稽古が休みの日である。

そんな日は、卍丸は店の手伝いをしたり、奥のこまごました仕事を頼まれたりして過ごしている。

今日の店の手伝いは使いであった。頼まれた荷物を持って、書き付けの住所へ向かう。

時刻は昼時分。あちこちのめしやから、良い匂いが漂ってくる。

住所を探しながら道を歩いていると

「よぉ、文鳥丸」

と背後から笑いを殺した声で呼ばれた。

「……卍丸です。」

声の主は見当がついたが一応反論する。すると矢張りそこには笑いをかみ殺しているカブキ団十郎が立っていた。

「悪ぃわりい。うっかりしてたぜ。ついお前見てたらそっちの名前が浮かんできちまってな。

で、どうだったい?店でたっぷりしぼられたんじゃネェのか?」

「いえ、大丈夫でした。極楽……先日、俺を庇ってくれた用心棒仲間が上手く繕ってくれました。」

「そうかい。安心したぜ。俺の所為でお仕置きってんじゃ寝覚めが悪ぃからな。

いや、俺様とした事がお前に礼をしてなかったと思ってよ。」

卍丸の眉がぴくりと跳ね上がる。

「礼……お礼参りですか?カブキさん、まだ俺とやる気なんですか?」

「馬ー鹿!誰がお礼参りだ!違わぁ、礼だよ、礼!昨日の礼だっつの」

「ちょっと!礼なんて……俺、使いの途中なんですってば!」

言うとカブキは、卍丸の抗議も聞かず、卍丸の暴れる襟首を掴んで歩き出した。

 

今日の使いは、恐らく主人か足元が絹のお供で出かけられない卍丸に

息抜きさせるためにと気を利かせて言いつけたのだと判っていた。

だから慌てて店に帰ることもないだろうし、少々の息抜きなら許されるはずだった。

が、しかし、卍丸はカブキの横に腰掛けながら、居心地の悪さから今すぐ店に戻りたくなっていた。

一つは極楽に言われた事が、矢張り胸に引っかかっていた事もある。

もう一つのこの居心地の悪さの理由は、自分でもよく判らなかった。

カブキの蒼い目で覗き込まれるたびに、昨夜のカブキの胸と腕の感触が戻って来て落ち着かない。

こんなのは自分らしくない、と卍丸は表情には出さずとも、内心は少なからずうろたえていた。

「おまちどおっ!」

卍丸がすっかり弱りきった所で、目の前にどんぶりが勢い良く置かれた。

「おっ。来た来た。」

卍丸の戸惑いを知ってか知らずか、嬉しそうにカブキが声を上げた。

「……これ……」

「鰻だ。食ってみろよ。最近じゃ鰻をこうやって食うんだぜ」

カブキは早くも鰻の入った丼を取り上げていた。

「鰻なら昔、村の川で取って食ったことあるよ。堅くて臭くて、余り旨いもんじゃなかったけど」

「まあ食ってみろよ。お前が料ったモンとは味が違うぜ。」

卍丸は恐る恐る丼に箸を付けてみた。記憶のものとは違い、箸の先で身はほろりと崩れた。

あれ?と思い、口に運ぶ。

かみ締めると、癖の無い魚の白身と脂の甘みがあいまって、得も言われぬ旨みが口の中に広がった。

(白身の魚なのに、こんなに脂がのっているなんて。)

そのままでは少し胸が焼けそうだが、そこに甘辛く煮詰めたたれがかかって、

こってりした魚の味を引き締めている。山椒がぴりりと効いていて絶妙だった。

卍丸は思わず

「―――――旨い!」

と言って破顔した。

鰻はもともとは癖の強い魚で、下賎な食べ物として認識されていた。

以前卍丸がしたように何の下処理も無く只焼いただけでは、川魚特有の生臭さと、ぐにゃりとした歯ごたえで

確かに旨い食べ物ではなかった。

それを何とか食べられるようにと、江戸の屋台が工夫を凝らしたのがこの鰻である。

鰻を裂いてまず蒸し、それから白焼きにし、それを更に甘辛いたれを付けて、更に炭火で焼き上げるという

それこそ手間を幾つもかける事で、下賎な川魚とは思えないほどの上品な味わいに仕上げたのだ。

実は江戸でその調理法が確立されたのはごく最近の事であり、その鰻丼が今、この近江でも流行しているのであった。

カブキは卍丸の笑顔を見て満足そうに

「だろう?鰻は目にも良いって話だぜ」

と言って自分も箸を取り、豪快にめしを掻きこんだ。

自分の目の事を思ってカブキはここに連れて来たのか。

カブキはこんな気遣いもする男なのかと、卍丸は驚くと同時にその食いっぷりに見惚れていた。

(白川村では、それこそ食うものが無くて仕方なく鰻を取ってきたんだったな。こんなに旨いものなら、母ちゃんに食べさせたかった……)

箸を進めながら、不意に何年も帰らない故郷を思った。母を見たのは、泣きながら卍丸の頬を撫でていたあの顔が最後だ。

黙り込んだ卍丸を見て感じる所があったのか、カブキが

「お前、故郷は何処なんだよ?」

と聞いてきた。

「火多の、白川村です」

「そりゃまた、エライ田舎から出てきたもんだな。家族はいんのか?」

「母がひとり、白川村に残っています」

卍丸は早口で答えた。母の事は尋ねられたくなかった。

子供の頃、近江に出てきた卍丸はそれこそ何回も家族の事を尋ねられた。そして母が健在と知るや皆

『可愛そうに。お母さんがいるのに一人でこんなところに働きに出されて。』

と同情された。母を悪者にされるのは胸が痛んだ。

母は今まで一人で自分を守ってきた。だから今度は自分が母を守るのだ。出来る事を出来る者がするだけだ。

(だから、母を、かあちゃんを悪く言わないで)

そう卍丸は、いつも胸の中で叫んでいたのだ。

「仕方なかったんです。飢饉で……俺たち二人、野垂れ死にする所だったんですが、於荷屋の大旦那様に拾っていただいたんです。

俺、大旦那様と於荷屋から頂いたご恩は、どれだけ尽くしても返せないと思っています」

問われてもいないのについ口調も言い訳がましくなった。気が付いた卍丸は、又、目を伏せた。

カブキはそれを聞きながら、別の所に引っかかりを感じた。

(飢饉か……)

農村部の飢饉は想像を絶すると聞いている。村一つが全滅と言う話もよく聞いた。

恐らく卍丸の目も、幼い時分に十分な栄養を摂れなかった事が原因なのだろう。

カブキは戦乱で家族を失った。このご時世それも珍しい事ではない。

幼い頃、体一つで焼け出された。生きるためには何でもやった。

目の前で家族を殺された。力こそが全てだと思い知った。堕ちていく奴は力と運がない奴だと罵って、胸が痛む事も無かった。

だが、コイツは……

「そういや、お前、幾つなんだよ」

母を責められるのではないかと思っていた卍丸が、不意に歳を尋ねられて驚きつつも返答した

「15歳です」

「15ぉ?何だ、ホントに餓鬼だったのかよ」

眼前の卍丸は15歳よりももっと大人びて見えた。

俺がこの頃は今よりももっと荒れていた。何時死んでもおかしくネェ程暴れまわっていた。

それなのに、この餓鬼は手前の命が危ねえって時ですら、お袋の身を案じて、今も受けた恩義を忘れず真っ当に生きようとしている。

この目は、何かを諦めた様でいて、真っ直ぐに生きる事を諦めていねえ目だ。

カブキは卍丸の赤味がかった瞳を見て思った。

15歳より大人びて見えるのは、真っ直ぐに自分を見つめてくる意志の強いこの瞳のせいか。

顔立ちは確かに15歳の少年のものだ。何故なら夕べ、腕の中で見せた卍丸の寝顔は―――――

知らず夕べの卍丸の寝顔を思い出し、慌ててカブキは首を振ってそれを振り払った。

そこで唐突であったが、きわめて軽い口調でこう続けた。

「お前、於荷屋のお嬢さんとはできちまってるのか?」

「ええっ!!」

卍丸は丼を取り落とさんばかりに動揺した。見る見るうちに頬が染まってくる。

(そういう事……かよ。)

目を丸くさせる卍丸の様子を可愛らしい、と感じたカブキは自分自身に驚き、

又同時に、その反応を何故か苦々しく感じた自分に戸惑った。

卍丸はどもりながら

「何を馬鹿なことを……絹お嬢様は於荷屋の大事な一人娘です。

お嬢様が無事に輿入れされるまで、俺が……俺たちがお守りするのが当然の事です。」

と返した。知らず右手は絹の匂袋を握り締めていた。

「そうかぁ?コイツは無粋な事を言っちまったみてえだな。

鰻は精がつくって言うしよ。これ食っちまったら俺も女の所へでもしけ込むとするか」

少々口調も意地が悪くなる。

それに気が付いたカブキは、俺様とした事がこんな餓鬼相手に、と少し笑って卍丸を見た。

卍丸は眉を寄せて、非常に、妙な顔をして自分を見ていた。

(おいおい。こいつにはまだ早かったか……どうやら、嫌われちまったみてぇだな)

卍丸の表情をそう取ったカブキは、片方の眉を吊り上げて、とりあえず残りのめしを片付ける事にした。

卍丸も押し黙ったまま鰻を食べ続ける。最後の米一粒まできれいに平らげて箸を置いた。

「ご馳走様でした」

両手をあわせ、一礼してカブキの方を向いた。カブキは

「今度は金を返すんじゃねえぞ。」

言って卍丸に笑いかけた。卍丸も釣られて笑い

「じゃあ今日はお言葉に甘えてご馳走になります。ありがとう」

と答えた。

「じゃあ、俺、本当にそろそろ戻らないと」

と卍丸は席を立った。カブキはおう、と短く言った後「卍丸」と声を掛けてきた。

卍丸がその声にそちらを向くと、

「いつかお袋さんにも食わせてやれるときが来るぜ。」

とカブキは言って笑った。

誰かに、一番言って欲しかった言葉を今唐突に言われ、卍丸は驚きで眩暈がするほどだった。

 

いけない。

このひとは俺の、

一番深いところに入ってくる。

 

「……ありがとう……」

小声でそう言うのが精一杯だった。喉の奥が痛い。

背を向けた卍丸にカブキが

「おうよ。じゃあ、またな」

と声を掛ける。

 

いけない。もう、会わないと、今ここでカブキに告げなければ。

俺は火多の卍丸ではない。於荷屋の卍丸だから、もうカブキと係わり合いにはなれないと。

極楽の声が耳にこだまする。

絹の瞳が浮かんできた。

 

しかし、卍丸は震える声で

「うん。ありがとう。じゃあ、また。」

と答えて振り切るようにめしやを走り出た。

 

(じゃあ、また。)

答えた声は、まるで自分の声ではないようだ。

(でも、極楽、カブキは皆が言うような人では……)

我ながら他人事のように、卍丸はその返事をどこか遠い所で聞いていた。

 

 

文鳥7「路地裏」へ続く。