文鳥  

17.「悪夢」

 

ああ、熱い。

と、卍丸は腕を振り払った。

体が重い。早く逃げなければと思うのに。

 

逃げる?

一体何処に?

 

気が付くと自分は火で囲まれていた。

この熱さは火の所為だ。早く逃げないと巻かれてしまう。

何とか足を踏み出そうとするが、自分の足はまるで地面に張り付いたようにびくともしない。

どうした事かと足元を見たら、血塗れの手が、何本も自分の足を掴んでいるのだ。

腹の底から絶叫し、がむしゃらに足を動かして手を振り解こうとした。

もがきながらふと見ると、視界が真っ赤に染まっている。

もうこんな所まで火が、と思ってよく見ると

それは火の明かりで照らされているのではなく

頭から血で染まっている自分の姿なのだった。

こうしている間にも火は迫ってくる。

熱い。

あつい。

息も出来ないほどの熱気が迫り、いよいよ炎に巻かれるかと思ったとき

自分の足元がどろりと溶けて

ずぶずぶと底なしの沼のように飲み込まれていった。

だが自分の体を飲み込んでいくのは泥ではなく血だ。

卍丸は血の海からもがき出ようとあがいたが

もがけばもがくほど血は卍丸を重く絡めとり、ついには頭までごぼりと飲み込んだ。

底に沈みこむのかと思いきや、意外にも沈んだ先は深く暗い空洞だった。

その空洞は全くの深淵で、およそ光と言ったものはなかった。

卍丸は立ち上がってあたりを見回したが、出口らしきものは全く見当たらない。

先程まで自分にまとわり付いていた腕も、粘ついた血も綺麗になくなっている。

すると卍丸は急な寒さに襲われた。

先程まではあんなに熱かったのに、今度は手足が急激に冷えていく。

堪えようとしても歯がガチガチと鳴って、卍丸は思わず自分の体を抱え込んだ。

しかし体は芯から冷えているらしく、その程度で体温が戻る気配はなかった。

寒い…凍えそうだ…誰か…助けてくれ…

「カブキ」

無意識に名前が出た。

会いたいよ。あの晩みたいに俺を包んでくれよ。

「カブキ!」

不意に頬に熱を感じた。また、血が流れたのかと思ったが違った。

自分は泣いていたのだ。

慌てて拭ったが涙は止まらない。

こみ上げてくる嗚咽を堪えようとしたが、その努力が不意に滑稽に感じられ、我慢するのを止めた。

此処には誰もいない。思い切り喚いて名前を呼んだって誰に憚る事もないじゃないか。

カブキに会いたい。

また馬鹿みたいな話をして、俺をからかって笑って欲しい。

カブキとの時間を思い出した時、闇の中に小さな光が見えて卍丸は悟った。

この闇は、俺の内面そのままだ。

暗く、深く、寒い。

今までの俺の孤独。晒す事が出来なかった俺の弱さ。

それをそのまま包み込み、光を射してくれたのがカブキだったんだ。

「助けてくれ。カブキ」

そこまで考えた時、頭の芯が急に冷えて、溢れていた涙は不意に凍りついた。

この闇が、お前そのものなら。

お前は既に血でまみれている。

 

「お前はカブキに赦されることはないんだよ」

 

ハッ、として目を開けると、覚えのない天井が見えた。

どうやら夢を見ていたらしい。

だがしかし、何処までが夢で、今は果たして現実なのか。

うなされていたのか息が荒い。汗で体がぐっしょりと濡れていた。

「ここは……」

重い体を何とか起こそうと力を入れたら、右肩に激痛が走った。

「あああっ!」

思わず再び倒れこむ。そこは布団の中であった。

布団?

俺は、確か、カブキの屋敷に乗り込んでお嬢さんを助けた後、出口の近くで力尽きたはずだ。

痛みの所為で少し頭がはっきりして来た。

肩の痛みは、あの出来事が間違いなくあったことを告げている。

触ると清潔な布が巻いてあり、傷の手当てが施されてあった。

「………」

改めてあたりを見回してみる。豪奢な作りの部屋に自分は寝かされていた。

枕元の衣紋掛けには、綺麗に手入れされた自分の陣羽織まで掛けてある。

「一体、誰が…」

立ち上がろうとしたが上手く力が入らない。一体自分は何日眠っていたのか。

「ほう。目が覚めたようだな」

するりと襖が開けられ、音もなく男が部屋に入ってきた。

卍丸は声のほうに顔を向けて男の顔を認めると、驚きの余り身じろいだ。

再び肩に激痛が走る。

「……ぐっ!……」

「……お前は七日も生死の境をさまよっていたのだ。肩の傷もまだ油断がならん。

しばらく身動きもままならないだろう。じっとしていた方が身のためだぞ」

「お、お前……黄泉…!」

卍丸は己の目を疑った。

目の前に立っているのは、確かに炎の明かりの中で微かに見えた黄泉の姿だった。

「ふん。まだそんな目が出来るとは流石だな。戦国、卍丸よ」

不意に自分の名を呼ばれ、卍丸は一瞬たじろいだ。

だがしかし直ぐに自分を取り戻すと、真っ直ぐに黄泉を見据えて言った。

「一体、どんな気まぐれで、俺をこんな所に連れて来たんだ」

黄泉は面白そうにくつくつと喉の奥で笑うと

「こんな所とはご挨拶だな。恐れ多くもお前は根の一家親分、黄泉の私室に寝かせて貰っているのだぞ」

と言った。

私室……

言われて見ればこの豪奢な作りは、於荷屋主人の部屋と比べても遜色がない。

天井は高く、座敷などは於荷屋のそれより寧ろ広々としていた。

「今日辺り目が醒めなければ、いよいよ命が危ないと医者が言っていた。

肩の弾は抜けていたが、あの傷は後で酷い熱が出るのだ。

血も大分流れていた様だしな。何処までも運の良いヤツだ」

「…何を企んでる」

卍丸は油断なく言った。

「生憎俺は、もう於荷屋とは関係ない」

「そのようだな。いや全く、近江では酷い目に遭わせてくれたな」

「………」

「気まぐれといったか。卍丸。私は気まぐれで動いたりなどしない」

言うと黄泉は、卍丸の側に片膝をついて囁いた。

「卍丸よ。お前はあの屋敷で、何人切り殺したか覚えているか?」

「!!」

卍丸の顔が苦しそうに歪む。

「四十人よ。私が選りすぐって近江に連れて行った兵隊を、お前は殆ど殺してしまったのだ」

四十人……卍丸は己が掌をじっと見詰めた。

じわりと、あるはずのない血が滲んで見え、思わず頭を振った。

「お前の所為で私は随分兵隊を失った。だがな、私は使える人間が嫌いではない」

黄泉の真意を測りかね、卍丸は黄泉の顔を見つめ返した。

「いなくなった兵隊の穴埋めはせねばならぬ。お前一人で四十人の働きが出来るなら使わぬ手はない。

どうだ、卍丸。私の手の下で働いてみると言うのは。」

「?!」

「悪い話ではないだろう。それなりの待遇も約束してやる。近江をお前の好きにさせてやっても良いのだぞ」

思いもかけない黄泉の言葉に、一瞬卍丸は呆気にとられた後、さも可笑しそうに笑い出した。

「……趣味の悪い冗談だな。」

「冗談などではない」

「じゃあ、ハッキリ言ってやる!お断りだ!あんたがどういうつもりで俺を此処に連れてきたか知らないが

改めて殺されたってお前の言う事なんか聞くもんか!!」

卍丸は黄泉を射抜かんばかりの勢いで睨みつけた。だが、黄泉は一向に気にかけない様子で

「だろうな」

と、さも当たり前の様に言った。

「お前がそう簡単に返答するとは思わなかった。ま、そんなに簡単に寝返られても信用ならん。

だがな、よく考えてみろ卍丸。お前に戻る場所などあるのか?」

「……!」

「卍丸。お前は近江ですっかり死んだものとされている。……そうなるように私が仕組んだのだが」

「何…なにを」

「お前の持っていた剣が二階に捨て置いてあったからな。似たような体つきの者に持たせて身代わりとした。

於荷屋ではお前の葬式まで執り行ったそうだぞ。此処にお前が囚われている事なぞ誰も知らん」

身代わり?卍丸は鋭く聞き返した。

「お前は……俺の身代わりに、自分の仲間を殺したって言うのか!」

黄泉は意外とでも言うように眉を吊り上げあっさりと言った。

「私の駒だ。効果的に使って何が悪い。それに、お前にそんな事を言う資格があるのか?」

「………!」

「取り澄ました顔をしても、お前は何の躊躇もなく四十人の人間を切り殺したのだ。」

その言葉に卍丸の顔が苦しそうに歪む。

それを横目で見て取った黄泉は満足そうに微笑み、なおも続けた。

「血に塗れた己が手を良く見ろ。その手は正に我が根の一家に相応しいと思わんか?」

卍丸は思わず視線を掌に落とした。再び掌が紅く染まる。

「…やめろ……!」

黄泉の声は一層甘く、聞き分けのない子供に咬んで含めるように優しく響いた。

「お前は自分が思うほど綺麗な人間などではない。己が欲望を認めてしまえば良いではないか」

 

「止めろ!!」

卍丸は叫んだ。

黄泉の言葉が止まる。間髪入れずに卍丸は言った。

「確かに俺は綺麗な人間じゃない。俺の手が血で汚れているのも承知の上だ。

だがな、俺は少なくとも何のために剣を振るうべきかを知っている。それは決してお前のためなんかじゃない!」

全身で黄泉を拒絶する如く、身を震わせる卍丸を見て、黄泉はつまらなそうにふん、と鼻をならした。

「何のために……か。」

「…………」

「では」

黄泉はからかうような口調で、卍丸の顔を見下ろしながら言った。

「カブキ団十郎の為なら、振れるというのか?」

「!?」

卍丸が思わず黄泉を見上げると同時に、布団の上に仰向けに押し倒された。

背中から強く倒れ、傷に響いて苦痛に顔が歪む。

「が…っ」

「お前…カブキ団十郎と、どういう関係なのだ?」

「カ…カブキ…?」

「私にとどめをさされようかと言う時、確かにその名前を呼んでいた。

此処で熱にうなされながらも随分呼んでおったぞ、可愛いものだな」

「っ!」

卍丸の顔にさっと朱が差した。

慌てて黄泉を押しのけようとしたが、手首はそのまま布団に押し付けられる。

「な、何を……」

「あやつの大事なものを、我が手で汚してしまうのもまた一興よ」

「……!」

必死にもがいたが、今の体力の落ちた体ではどうにも逃げられない。

黄泉は卍丸の体をまさぐりながら、寝巻きの帯を器用に解き前を肌蹴けると

そのまま冷たい手を胸元に手を差し入れて来た。

「……っ!」

そのままするり、と寝巻きを肩から滑らせてすっかり脱がせ

露になった卍丸の細い首筋に吸い付く。

「止めろ!放せ!」

もがいては見たものの、体を這う手は勿論止まらない。

黄泉の唇は卍丸の首筋をなぞり、耳朶を軽く咬んだ。

おぞましい感触に肌が粟立つ。

「私の為によい声で鳴いてみよ。卍丸」

 

卍丸は唇が千切れる程強く噛み締め、強く目を瞑った。

畜生…畜生…!

絶対に、絶対に声なんて上げるものか!

 

 

文鳥18「籠」へ続く。