文鳥
13.「永の別れ・2」
卍丸は門をくぐると、音も無く駆け出した。
極楽も遅れじと続くが、後姿を追いかけるのがやっとである。
『俺と極楽二人だけしかいない。大勢に囲まれてしまったら終わりだ。
せめてお嬢さんを助けるまで、俺達の侵入を気づかせる訳にはいかない。』
卍丸は駆ける足を緩めずに考えを巡らせた。
そのためには騒がれる前に相手を一撃で倒すしかない。
それにしたってこの屋敷はなんだってこんなに人の気配が無いのだろうか。
罠にでもはめられたかとすばやく辺りに目をくばると、庭の木立から黒装束の男が姿を現した。
「きさ…」
男が声を発し終わる前に、卍丸の刀が男の喉仏を正確に捉えていた。
音も無く刀を抜き去る。男は喉からごぼり、という音を立てて崩れ落ちた。
倒れた男を振り向きもせず、卍丸は走り抜けた。
更に前方、今度は建物の陰から再び黒装束の男達が二人姿を現した。
男達は驚いた様子で刀に手を掛ける。だがしかし卍丸はそれを抜かせなかった。
物も言わず卍丸の刀が男達の首筋をとらえる。
一瞬の出来事である。男達は何が起こったかも判らなかったであろう。
男達は次々に倒れ伏した。卍丸は尚も駆け続け、屋敷の中に飛び込んだ。
極楽はすっかり卍丸から遅れを取ってしまったが、卍丸の道筋を辿るのは容易であった。
卍丸の通った後に、黒装束の男達が累々と切り倒されていたからである。
その様子を見て極楽の襟足が、恐怖でちりちりと逆立った。
男達は皆、刀に手を掛けたまま首筋を切られ絶命していた。
しかも刎ねるのではなく、致命傷となる首の脈を正確に絶っている。
『これを相手が抜刀する前にやってのけたのか』
極楽は恐怖の内に感嘆すら覚えた。
敵を確実に倒したければ傷が大きい方が正確で且つ容易である。
しかし、袈裟切りなどは刃にかかる負担も大きい。続けざまに人を切れば血糊や油などで切れ味も落ちてくる。
よって切り傷は少ないに越した事は無いのだが、そうそう人間の急所に誤らず刃を入れる事など出来ない。
卍丸の残した切り跡は、一刀のもと全て急所を切り裂いていた。
『こんな切り方が出来る奴などそうはおらん』
極楽が恐怖したのは正にそこだった。
極楽の良く知る卍丸は、用心棒としては優しすぎる位の男であった。
刀の携帯を許されていたにも関わらず、それを抜く事は稀であり
たとえ抜く事があったとしても、極力相手を傷つけないよう常に気遣うような所があった。
(実際は刀を使わずに済ます事の方がずっと難しいので、卍丸の腕の確かさはもとより間違いがなかったのだが)
その卍丸が、ためらいもせず、ひたすら作業のように人切りに専念している。
容赦のない切り口は、逆に卍丸の余裕の無さを物語ってもいた。
『卍丸…無茶をするんじゃないぞ』
卍丸が作る死者の道を辿りながら、極楽はその背を見失うまいと足を速めた。
元は旅館であった名残で、カブキの屋敷の中央には広い廊下が走り
廊下の両脇に沢山の部屋が並んだ独特の造りとなっていた。
部屋数の多さに絹を探し出すのは一見困難に思える。
『お嬢さんを囚えているのならば』
しかし卍丸は冷静に見当をつけた。
『絶対に一人にするはずが無い。部屋の周りに見張りを立てるはずだ。
全ての部屋を覗く必要なんて無い。
このまま廊下沿いに見張りの立つ部屋を探すのが一番効率がいい。』
卍丸は廊下を走りぬけながらそれらしい部屋を探した。だが見張りの姿は見当たらない。
この屋敷に入ってから半時程経っているだろうか。
今の所目は見えるが、何時屋敷内の亡骸を敵が見つけてもおかしくない。
一刻も早く絹を探し出す必要があった。休むことなく卍丸は廊下を駆け抜ける。
思い切ったことが出来るのは、極楽という心強いしんがりがいるからだ。
姿こそ見えないが極楽なら自分を見失うはずが無い。必ずうしろを守ってくれているはずだ。
『だけど、これ以上この屋敷に留まるのは危険だ。早くお嬢さんを見つけないと』
走る卍丸の目に、不意に不審な一角が飛び込んだ。
そこは廊下の突き当たりで、丁度階段の陰になっていた。
注意しなければ判らない目立たない小部屋だが、卍丸の直感はそれこそが怪しいと告げていた。
卍丸は小部屋に飛び込んだ。
「!!てめえどこから…」
やはりそこには黒装束の男が二人立っていた。
部屋の中にはこの部屋にそぐわない木の格子が見える。
『座敷牢か!』
卍丸はやはり物も言わず黒装束の男達を切り斃した。
「お嬢さん!」
男達を乗り越え卍丸は牢に駆け寄った。
中を覗き愕然とする。牢に囚われていたのは見知らぬ男達であった。
「あなた達は一体…」
男達は格子の向こう側から、一斉に鋭い視線を卍丸に投げてきた。
「テメエこそ誰だ。俺たちはカブキ団十郎配下、火の一家だ」
「火の…」
「いや、元、と言った方がいいか。
何処の家のモンか知らねぇが、この屋敷にゃァもう火の一家なんざいねえよ。生憎だったな。」
「え?」
思いもよらない言葉に卍丸は驚いた。
「どういう事ですか?ここは火の一家の屋敷ではないんですか?
…それに他の火の一家のひとたちは、一体何処にいるんですか?」
卍丸の問いに、男達の口が鈍る。
「他の奴等なぞ…いねえ」
牢屋の後ろの方にいた男が低く呻いた。
「いない?」
「根の奴等だ…あいつ等カブキ親分が京へ発った晩を狙って、この屋敷に仕掛けてきやがった。
他の火の一家なんぞいねえ。俺たちが最後の生き残りだ。後は皆殺されたよ」
「何…だって…!」
この屋敷の異様な静けさの理由はこれだったのだ。
屋敷に押し込められた火の一家の生き残りは、二十人にも満たなかった。
「じゃあ、屋敷にいた黒ずくめの男達は根の連中だったのか…判りました。今扉を開けるから一寸待ってて」
卍丸は斃れている黒ずくめの懐をさぐり、男の懐からずしりと重い鍵の束を取り出した。
男達は自分たちの屋敷に討ち入ってきたと思った者が、逆に自分たちを解放した事に驚いた。
「どういう訳かは知らねぇが…助かったぜ。兄さん。」
卍丸が牢の鍵を開けると、やつれた様子の男達が次々に扉から部屋へと出て来て声をかける。
「アンタは何処の家のモンだ?何人くらいで討ち入ったんだ?」
「俺たちでないってぇと、根の奴等を殺りに来たのか?」
口々に問う男達に卍丸は答えた。
「違うんだ。俺は於荷屋用心棒、戦国卍丸」
思わず名乗った後でもう自分はこの身分ではないのだと気づき、言葉が詰まった。
だがそれも一瞬の事で、卍丸は男達に向かって続けた。
「ここへ於荷屋主人のお嬢さんが拐かされているはずなんだ。俺はもう一人の仲間とお嬢さんを救いに来た。
お願いだ。お嬢さんが囚われていそうな場所を教えてくれないか」
男達は顔を見合わせていたが、やがて一人が思い出したように言った。
「ああ!あれじゃねえのか?菊五郎が言ってやがった何とか言う小僧をおびき寄せるとか…
その小僧てのが、アンタか」
「菊五郎…」
卍丸は菊五郎の金髪髷を思い出しつつ頷いた。やはりあの男が一枚かんでいたのか。
「俺たちゃそのお嬢さんは見てねぇけどよ、恐らくそんな客ならカブキ親分の部屋に通されてると思うぜ」
「ああ。あそこなら屋敷の最奥だ。閉じ込めておくにゃあおあつらえ向きだしな」
カブキの部屋…卍丸は身を乗り出して問い詰めた。
「頼む!その部屋は何処にあるんだ!教えてくれ」
男達は卍丸の剣幕に少々押されつつ答えた。
「お、おう。この部屋の外にある階段を上って、直ぐの廊下を右に進みな。突き当たった部屋が親分の部屋だ。
ひときわ大きい部屋だからすぐ判るだろうぜ」
直ぐにでも飛び出して行きそうなな卍丸に向かって、男達の中から自然にこんな声が上がった。
「なあ、アンタ。俺たちも助太刀するぜ。根の奴等を殺っちまいてえんだ。…菊五郎にもケジメをつけさせてやる。」
「おおよ。このままじゃおさまらねえ。アイツ等にせめて一太刀浴びせてやらァ。一丁大暴れしてやるぜ]
卍丸はそう息巻く男達の申し出に、少し考えた後
「根の一家は何人くらいこの屋敷にいるんですか?」
と聞いた。
「大広間に押し込んで来やがったのが大体三十人位だったな」
「他の部屋にも押し込んでたからな…全部で四、五十人もいたか」
五十人…ここにいる火の一家は二十人に満たない。
自分はここに来るまでに十人弱斬って来たが、それでも根の一家の方が断然数が多い。
本格的な斬り合いになったら、無事に絹を連れての脱出は困難になる。
「駄目だ。俺は根とやり合いに来たんじゃない。於荷屋のお嬢さんを助けに来たんだ。
だから少なくともお嬢さんを救うまでは、極力根の一家に知られないように動きたい」
むう、と男達から呻き声が挙がった。卍丸は続けて言った。
「お嬢さんを助けに行くのは俺一人で行く。その上で皆さんが俺に力を貸してくれるなら
俺が合図を送った後、して欲しい事があるんだ」
男達は卍丸の話を聞き息を呑んだが、手を貸す事に異論を唱えるものはいなかった。
「ありがとう皆さん。では宜しくお願いします」
一礼すると、卍丸は入ってきた時と同じように、脱兎のごとく部屋を飛び出して行った。
そのまま二階へ続く階段を駆け上る。階段の中途まで上がった所で後ろから声をかけられた。
「卍丸!」
極楽である。やはり後を違わずついて来てくれていた。
「極楽!ついて来てくれ。お嬢さんは二階の最奥に囚われている。詳しい事は行きながら話す!」
極楽と卍丸は並んで階段を上り、目指す部屋へと足を速めた。
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絹は膝の上で固く手を握り、自分の置かれている状況に必死に堪えていた。
広い、派手な作りの豪華な部屋に、自分と、見張りと思しき男が二人置かれている。
部屋の外にも気配がある。自力で逃げ出すのは無理だ。
見張りの二人は暇そうに、サイコロを振って何事かを賭けている。
気を失った振りを装った時、絹の後ろで話していた男達とは違っているようだ。
『卍丸は無事に私の所まで来る事が出来るのかしら』
絹は思案気に目を伏せた。
先の男達は卍丸をおびき寄せると言った。
自分の身代金を持ってきたところで卍丸を殺すつもりなのだ。
卍丸を信じているとは言え、不安で不安で仕方が無い。
『もし…もし卍丸の身に何かあったら…私どうすれば…』
血まみれになって斃れている卍丸の姿が不意に脳裏に浮かび、絹は思わず小さな叫び声をあげた。
その小さな声が、男達の興味を引いた。
「お嬢さん、そう怖がんなくてもイイぜ」
絹は無言で、膝の上の手を指が白くなるほど更に強く握り締めた。
男はへへ、と野卑た笑い声を上げて絹に手を伸ばしてきた。絹は反射的にあとずさった。
「おい。下手に手ェだすんじゃねえぞ。まずは黄泉様と決まってんだろう」
つまらなさそうにサイコロを振っていた男が、絹に手を伸ばして来た男を咎める。
「そうは言ってもこんな上玉、京でもめったにお目にかかれネェぜ」
黄泉…?聞き慣れない名前に絹は眉を寄せた。
さっき自分の後ろで菊五郎という男に指図していた男の事かしら。低く静かな冷たい声。
そんな事を思っていると、不意に二の腕を掴まれて男の方に引き寄せられた。
「な、なあ。ち、ちょっと位なら、いいんじゃねぇか?黄泉様にわからねえ程度によ」
なに…何を……
絹は初心なりに男達が言わんとしている事は理解が出来た。
自分の身に起ころうとしていることに、恐怖のあまり体がガタガタと震える。
「い…いや……!」
絹は男を振り解こうと身を捩ったが、更に強く腕を掴まれた。
「なあ、おとなしくしてりゃアいい目を見せてやるぜ。
どうせお嬢ちゃんは家へは帰れねえんだ。俺達の言うとおりにしておいた方が身のためだぜ」
『家へ…帰れない…』
絹はその言葉にハッと息を呑んだ。
そうだ、私が何とかして於荷屋の危機を外に知らせないと、店の皆が殺される。
卍丸が来てくれるまで、どんな事があっても凌がなければならないのだ。
でも、私は本当にここから帰れるのかしら。卍丸は本当に来てくれるのかしら。
張り詰めていた心の糸が切れそうになる。
「止めて!止めて下さい!」
絹は夢中で男の腕を振り解こうともがく。だがそれは一層男を喜ばせるだけだった。
髪が崩れ、裾が乱れた。
「おめえも好きだよなあ」
もう一人の男は、あきれたと言う風情で、それでもにやにやとしながらこちらを見ている。
「止めて!お願い放して!……嫌っ!助けて!……卍丸!!」
絹は泣きながら闇雲に腕を振り回した。
すると。
ひゅ、と風を切るような音がして、何か黒い影が目の前を横切った。
「何だァ?」
絹の腕を掴んでいた男も異変に気づき、後ろを振り返った。
すると、入り口付近でサイコロを弄んでいた男の動きが止まっていた。
妙な角度で首を傾げている。
指からサイコロがぽとり、と落ちた。
と次の瞬間、男は首筋から血を吹き出させて仰向けに倒れた。
「きゃああああ!」
「うああああああ!な、何でぇ!」
絹と男は同時に叫んだ。すると又あの、ひゅ、という軽い音がした。
すると今度は絹の目の前の男が、喉から血を吹き出して倒れた。
「ひっ!」
余りの出来事に眼前の景色がぐらり、と揺れた。
すると、遠のきかけた絹の意識を呼び戻すように、待ち望んだ頼もしい声が
「お嬢さん!」
と呼んだ。
絹はその声で己を取り戻した。
「卍丸!」
安堵で胸が一杯になる。歓喜のあまり声の主へ抱きつこうと振り返った。
それなのに。
絹は卍丸の姿を見るなり、凍りついた様に身動きが取れなくなった。
そこには全身を血で染めた、陣羽織姿の卍丸が立っていたからである。
「…卍…丸……?」
「良かった。お嬢さん、ご無事ですか?」
しかし自分を呼ぶ声は、変らず優しく暖かい。
「卍丸!」
絹は今度こそ卍丸へと手を伸ばした。すると
「いけません!」
と、絹が今だかつて聴いたことのない、固い声で卍丸はその手をとどめた。
びくりと絹は手を引き、卍丸の表情を窺った。
すると卍丸は、絹を安心させるように少し微笑みかけると
「お嬢さんの、お手が汚れます」
と静かに言った。
絹はその言葉に酷く心を乱された。
「そんな…そんな事…卍丸、こんなに血が…だって…あなた怪我を…」
とやっとの思いで言葉をそう紡ぎ出すと、卍丸は
「いいえ」
と、悲しそうに首を振り
「俺は何処も怪我していないんですよ」
と言った。
絹は今度こそかけるべき言葉を失った。
そんな事無い。あなたがそんなに悲しそうにする事など無いのよ。と言いたかった。
だが、目の前の悲しそうな卍丸の顔が、本当に遠くに行ってしまった事を告げていて
絹から言葉を奪ってしまったのだ。
「卍丸…」
嫌よ卍丸。私を置いて行かないで。
絹は卍丸に向かって縋るように手を伸ばした。
その時、廊下から切羽詰ったような極楽の声がした。
「卍丸!まずいぞ!庭の亡骸が見つかった!根の奴等が動き出したぞ!」
卍丸は顔を上げると
「いよいよだ。」
と二人を促した。その声に絹もはっと我に返り叫んだ。
「卍丸!極楽!大変よ!この人達は於荷屋に押し込みを働いて、店をのっとるつもりなのよ!」
「何だって?!」
卍丸と極楽は同時に声を上げた。
「ここの人達の大将は黄泉というひとらしいわ。一味はどうも京から来ているようなの。
黄泉はこの辺り一帯を手中に収めるため、禁止されている武器を輸入したいのよ。
そのために於荷屋の看板を隠れ蓑にするつもりなの。
早くこの事をお上と店に知らせないと、店の人間は皆殺しよ!」
絹の言葉に二人は顔を見合わせた。
「卍丸…」
極楽が卍丸を見て呻く。卍丸はそれを受けて
「…判りました。早急にこの屋敷から脱します。お嬢さんはお上へ、黄泉の謀略を知らせてください」
ときびきびと指示を出すと、ふいに口を噤んだ。
どうしたのかと絹がいぶかしんでいると、卍丸は一呼吸置き、今まで見たことの無い表情をして言った。
「お嬢さん、厚かましくもお願いをひとつ、申し上げます」
ただならぬ雰囲気に釣り込まれて卍丸の顔を覗き込む。
「お嬢さんの仰る通りこの一件は、京の根の一家、黄泉が仕業です。
ですが今、近江火の一家、カブキ団十郎にその濡れ衣がかかっているのです。
お嬢さんにはこの一件について、なにとぞお上と旦那様に直訴していただき
カブキの濡れ衣を晴らしていただきたいんです」
「カブキ…団十郎?」
あの、於荷屋で卍丸と対峙したという、カブキ団十郎?
何故今、卍丸はそんな事を言うのかしら、と絹は眉を寄せた。
すると卍丸はさっと表情を引き締め、今度は極楽に向かい
「極楽!極楽はお嬢さんを担いでこの屋敷から脱出してくれ」
と、言った。
「卍丸、おぬしは?」
「俺は、二人がこの屋敷を出るまで時間稼ぎをする」
「駄目よ!」
「卍丸!」
二人は思わず息を呑んだ。
絹の目から再び大粒の涙が溢れた。
「駄目よ!絶対駄目!」
「お嬢さん…」
「逃げるなら三人一緒よ!卍丸を囮にして逃げるなんて出来ないわ!」
縋る絹に卍丸は強い口調で諌めた。
「お嬢さん、今は於荷屋の一大事です。
ここで三人が一度に死んだら、誰が於荷屋の危急を知らせるんですか!」
「卍丸…!!」
そうだ。今於荷屋を救う事が出来るのは自分だけなのだ。
絹はしかし、ただ泣くしか出来ない自分を呪った。
「卍丸。ワシが囮になる。お主がお嬢さんを」
極楽が言うと、卍丸は
「駄目だ。俺じゃお嬢さんを抱えて走る事は出来ない。…それに…」
卍丸は窓に目をやった。陽は夕刻のそれに近づいていた。
俺の目はもうそんなにもたないのだと。お嬢さんを確実に助けて欲しいから極楽に頼むのだと
言葉には出さずとも卍丸が言いたいのが極楽には痛いほど判った。
『卍丸…そうじゃった。お主、覚悟を決めたのだったな…』
極楽は黙って頷くと、泣きじゃくる絹を肩の上に担いだ。
「嫌っ!極楽!」
絹は身を捩り卍丸へ手を伸ばした。
こんな時だと言うのに、卍丸はいつもと変らない笑顔で立っていた。
「お嬢さん」
卍丸は極楽の肩越しに言った。
「お嬢さん。実は俺は於荷屋からお暇を頂きました。
…だから、この屋敷を出ても、俺は於荷屋へ戻る事が出来ません」
「……!」
「今までご厄介になった八年間、俺、本当に幸せでした。
おこがましくも俺は、お嬢さんを、本当の妹のようにも思っていました。」
何?何を言っているの卍丸。
「於荷屋とお嬢さんはただ生きるだけだった俺に、生きる喜びと心をくれたんです。
だから俺は、俺を本当の意味で生かしてくれた於荷屋とお嬢さんを守りたい。
そのためならどんな事でもするつもりです。」
判らない。何でそんな事言うの。
「店に戻られてから、きっと口さがない事を言う輩もいるでしょう。
ですが心を強く持って、どうぞ健やかにお過ごしください。
俺は何時でも、どこにいても、お嬢さんの幸せを祈っています。
…本当に、今までありがとうございました」
聞きたくない!
絹は卍丸の言葉をさえぎるように叫んだ。
「嫌!何で!何でそんな事を言うの卍丸!そんな…そんなのはまるで……」
まるで、永の別れのようではないか。
絹はこの日の事を思い出す度
何故、血塗れになって自分を助けに来てくれた卍丸に
なりふり構わず縋らなかったのかと、後々まで後悔する事となる。
何故ならこれが卍丸と絹の、今生での別れとなったからである。
「さあ!もう時間が無い!極楽、お嬢さんを頼んだぞ!!」
「任せろ卍丸!ワシの命に代えてもお嬢さんを無事に連れ帰るわ!
……卍丸!」
「うん?」
「死ぬなよ」
卍丸は黙って大きく頷き、部屋を飛び出していった。
極楽も絹を担いで出口へ真っ直ぐ走り出す。
階段を下りたところで、自分たちから遠くはなれたところから
「お嬢さん、何処にいるんですか!卍丸です!お嬢さん!」
と叫ぶ卍丸の声が聞こえた。
極楽は卍丸の声を背中で聞きながら廊下をひた走る。
「お嬢さん…お辛いでしょうが…どうか、どうか卍丸の気持ちを察してやってくだされ」
肩の上で絹が声を押し殺して泣いていた。