文鳥
12.「永の別れ・1」
それはごく静かに始まった。
カブキ団十郎が京へと向かうため、卍丸と於荷屋の炭小屋で別れた晩に話は遡る。
その晩、近江中の火の一家は、根の一家・黄泉への策を練るため主のいないカブキの屋敷へと会していた。
だが、明確な答えも出せないまま評議は物別れに終わり
一家は何時収束するともわからない事態に苛立ちを募らせていた。
「何にしてもカブキ親分が京から戻らない事にはどうにもならネェだろう」
「下手人が挙がるまでは出来るだけつるんで歩くこった。
彦左も雨も、一人で夜道を歩いてる所をやられたんだからな」
敵の目的も正体もハッキリしない中では、それらは至極当然な意見である。
やがて一同はめいめいに、酒を煽るもの、博打を始めるもの
又はカブキがいない間の近江の縄張りをどう仕切るか評議するものなど、それぞれ屋敷の中へと散っていった。
そんな中、屋敷の中から、足音を忍ばせ門に向かう影があった。
菊五郎である。
菊五郎は手に酒瓶をぶら下げ、辺りを窺いつつ見張りの番へ近寄っていく。
「おう、張り番ご苦労だな。何だ、今夜はやけに冷えるじゃネエか。」
言って菊五郎は見張りの横に立つ。
確かに今晩はいつものこの時期に比べ、深々とした冷気が夜を包んでいた。月明かりが鋭いほど蒼い。
「差し入れだ。冷えた身体にゃァコイツが一番だろう。」
「ありがてェ」
見張りは菊五郎が差し出した酒瓶を受け取り、さも旨そうに飲み始めた。
その時。
ごくわずかに、乾いた破裂音がした。
「?!」
見張りが驚いて辺りを見回す。何も無い。菊五郎がこちらを見ている以外は。
と、途端に腹の辺りに焼き鏝でも当てられたかの様な熱を感じた。
事態が判らないまま己が腹を見る。小さな孔が見え、血が吹き出していた。
男は震える瞳で菊五郎へ視線を泳がした。
菊五郎の顔は月明かりで蒼白く浮かんで見えた。その目はまるで硝子の様だった。
酒瓶が見張りの手から滑り落ちた。
男が動かなくなったのを見届けて、菊五郎はその肩を蹴飛ばし、門の脇へと転がした。
手はず通りに鍵を開ける。門の外には黄泉以下、根の一家が音も無く立っていた。
「ご苦労」
黄泉が、まるで今夜の月のような、冴えた口調で菊五郎をねぎらう。
「中の様子はどうだ」
「へい。先ほどまで黄泉様への策を評議しておりやしたが、結局轟々となって物別れになりやした。
今は皆、めいめいに酒を呑んでおりやす」
「そうか」
いつもの様に黄泉は無感情に応じる。
「では、早速仕事にかかるとしよう。菊五郎、案内は頼んだぞ」
腹を決めていたとは言えいざとなると身体が震える。
目ざとくそれを見た黄泉が、楽しそうに目を細める。
「どうした。この期に及んで臆したか」
「い、いえ、とんでもねえ。こりゃあ…武者震いでさ」
嫌な汗が背中を伝う。畜生。今更何だってんだ。
「行きましょう。黄泉の旦那。此方でございます」
震える足を悟られないように、菊五郎は屋敷へと歩みだした。
ガラリ、と乱暴に大広間の障子が開け放たれた。
火の一家は何事かと、酔いの為に覚束ない頭で入り口に目をやった。
そこには長剣を手に、三十名程の男達が立っていた。
男達は皆黒い上下を纏い、腕に手甲、足は脚半に草履のままと、完全な戦支度である。
「手前等、何処から湧きやがった!」
それには答えず侵入者達は、障子の側に座っているものから無言で切り捨てていった。
大広間は怒号と悲鳴に埋め尽くされ、カブキが愛した豪華な梁や襖もあっという間に血しぶきで染められた。
突然の襲撃に、火の一家も武器を手に侵入者へと向かったが
武装し、戦支度に身を包んだ者相手に酔った体では到底太刀打ちなど出来ない。後は只々修羅場であった。
カブキが京に発ったまさか今夜、根の一家が屋敷にまで乗り込んで来ようとは
火の一家に油断もあったが、それ以上に思いもよらぬ事態だったのだ。
入り口を固め、警護も立たせたと言うのに、何故よりにもよって今夜
近江中の一家が集うこの屋敷に敵が易々と入り込むことが出来たのか。
よもや手引きが居ようとは思わなかった火の一家にとって、取る手立てなどなかった。
やがて大広間での一方的な殺戮が終わった後
屋敷中に散っていた火の一家の生き残りが大広間に集められた。
菊五郎が声も無くそれらを見つめていると、集められた中にひときわ大きな体躯を見つけた。角太郎であった。
角太郎もまた菊五郎に気が付くと、無事を喜んだのか嬉しそうな顔をした。
が、敵と共に並んで立つ菊五郎をみとめると、驚きのあまり眼を見開く。
やがて並べられた火の一家の生き残りの前に、長身でひときわ目を引く威圧感を纏った男が立った。
男はこの場に似つかわしくない、落ち着いて静かな声で告げた。
「私は根の一家頭領、黄泉」
思いもよらない名前に、火の一家達が一斉に息を飲む。
「一同、そろそろ事態が飲み込めただろうが、この屋敷は我々が頂いた。
火の頭領カブキ団十郎は、京へ今夜向かったとの事だが、生憎わが屋敷より生きては帰さぬ。
つまり火の一家は今この時より消滅したのだ。」
火の一家の顔から血の気が引いた。
どういうことだ。我々の動向は全て根に筒抜けだったのか。
「諸君に最後の選択を許す。つまり、我が配下になり、根の為に働くのであれば」
と、ここで黄泉は一旦言葉を切り
「そう。この、菊五郎のように」
と菊五郎を顎でしゃくって示して見せた。
視線が一斉に菊五郎に向けられる。畜生。あいつが答か。
菊五郎はその視線を不敵に笑う事で受け止めようとした。が、頬が不自然にひくひくと動いただけだった。
その様子を眺めつつ、黄泉は変らず静かな声で続けた。
「命は救ってやろう。働き次第では取り立ててもやろう。どうだ、悪い話ではあるまい。
どうせ貴様らもこうやってカブキの元に集うようになった輩なのだろう?」
大広間に静寂が広まった。
根の一家、黄泉の容赦の無さは噂どおりであった。
ここで異論を唱えればその場で直ぐに切り殺されるだろう。服従か、死か。
選択の余地はないように思えた。
「い…いけねえ…」
静寂を破るように、呻くような声が聞こえた。皆の視線が一斉に向かう。角太郎であった。
角太郎は大きな体躯を小さく縮こませながら言葉を繋げた。
「いけねえよ…菊五郎の兄貴。
あっしらは確かにヤクザ者だ。だ…だけど、ヤクザにもそれなりに通さなきゃいけねえ道が、あ…ありやす。
兄貴、兄貴が踏み入れちまった道はヤクザの道でもねえ、人の道でもねえ。ケ…ケダモノ…畜生の道だ。
今ならまだ遅くねえ…あ、兄貴、どうか…どうか目を覚ましてくだせえ。」
普段おっとりとして菊五郎に逆らった事などない鈍重な角太郎が、縋るように菊五郎の目を覗き込んだ。
菊五郎はこの、付き合いの長い弟分の言葉に、初めて後悔と恐怖を感じた。
「角…」
「兄貴。目を覚ましてくだせえ、あに…」
角太郎の言葉を、冷酷な黄泉の声が遮る。
「それがそいつの返事か。判った。」
「よ…黄泉様」
菊五郎が黄泉を振り仰いだ。
「菊五郎」
さりげない口調で黄泉は続けた。
「お前が黙らせろ。」
菊五郎の眼前がすう、と暗くなった。
黄泉の言葉に菊五郎の体が瘧の様に震えだす。
「どうした。他の者の決心が鈍る。早くやれ。」
「へ……」
「兄貴!」
角太郎が言葉を搾り出す。
菊五郎は角太郎の前に立ち、静かに長剣を引き抜き頭の上に振りかざした。
俺はもしかしたら、角の言う通りとんでもねえ道へ踏み込んじまったんじゃねえのか。
この道は何処へつながってやがる。地獄か。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で角太郎は言葉を続ける。
その声はもはや呻きではなく悲痛な叫びになっていた。
「兄貴!まだ間に合います!!目を覚ましてくだせえ!」
「角…」
畜生。畜生。畜生!
この剣を振り下ろせばこの悪夢は終わる。
だがそれは角太郎の言う「人ではない道」に踏み込みもう引き返せない事を意味する。
俺はこの剣を振り下ろす事は出来るのか。
情けなく腕が震える。鍔のカタカタ鳴る音が耳障りだ。
振りかざした剣がやたらに重く感じられる。ダメだ。重くて振りきれねえ。
剣の重さに耐えかね、腕を下ろそうとしたそのとき
背後から乾いた破裂音が大広間に響いた。
菊五郎が驚いて背後を振り向くと、黄泉が短筒を持って立っていた。
筒の発射口から煙が立っている。辺り一面に火薬の匂いが立ち込めた。
菊五郎が再び角太郎を振り返ると、角太郎の大きな体が、ゆっくりと崩れ落ちていく所であった。
「角!」
角太郎の額の真ん中に穴が開いていた。
角太郎はごとりと倒れて二、三回痙攣すると、それきり動かなくなった。
「角!!」
菊五郎は角太郎を抱き起こしたが、もはや何の意味も無い事だと頭の中のもう一人の自分が冷静に告げていた。
思わず黄泉を振り返ると、黄泉はそっけなく菊五郎に言った。
「次は無いぞ。菊五郎」
その言葉に思わず腕の中の角太郎を見た。
動かなくなった体からは生きていた頃の名残は無い。
まだ体躯にはほんのり暖かさも残っているというのに、何かが抜け落ちてしまっているのだ。
そうだ。これが死ぬという事だ。
…あっけねえ…
角太郎の顔に自分の顔がだぶって見えた。
『俺はもう…引き返せねえ処まで来ちまった…
……いや違う。実はもうとっくに踏み入れちまっていたのよ。角。』
畜生。俺は何も始めてなぞいねえ。こんな所で終わってたまるかよ。
菊五郎は震える体を押さえつけて、よろよろと立ち上がった。
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………
どこか遠くのほうで誰かが話している声がする。
体を動かそうとしたら、首の後ろに激しい痛みを感じ、息が詰まった。
その痛みのせいで、ぼんやりしていた頭に記憶が蘇る。
そうだ、わたし、琴の先生のところで手習いを受けていて…
…そこで急に黒装束の男が押し込んできて…
………………!
思わずあげかけた悲鳴を何とか押し殺す。
絹は見知らぬ屋敷の中に無造作に転がされていた。
自分の周囲でやはり見知らぬ声の男達が話を続けている。
絹は男達に背を向けた格好で横たわっていたので、目覚めた事に覚られた様子はなかった。
気付かれないように自分の体を確かめる。
手足は縛められていない様だ。首の他に痛む所は無い。
『そうだわ。先生の所で急に男達が押し込んできて…首を強か打たれたんだわ。
声を出すいとまもなく気を失わされて…。先生、先生はご無事だったかしら…』
絹が気丈にも声を上げなかったのには、夢うつつの男達の話の中に【於荷屋】の言葉が聞こえたからである。
『まさか…でも、確かに於荷屋と聞こえたわ。於荷屋に仇なすつもりなら、勿論私が於荷屋の娘と知っての事…』
絹が目を覚ました事に気づかない男達は、尚も話を続ける。
「………では、我々はカブキ団十郎を始末した頃を見計らって京へ引きあげる。
お前にはこの屋敷をくれてやろう。近江への足がかりを作ってくれた褒美だ。」
「へ…へい!あり…ありがとうごぜえやす」
「さて…約束だからな。引き上げる前にお前の仕事にも付き合ってやる。
その何とか言う小僧が於荷屋から金を持って来たら、そいつを殺せばいいんだな。」
「へい!出来ましたらとどめは…卍丸は俺に仕留めさせてくだせえ。金は要りません」
『………!』
絹の周りに感じる人の気配は数人であったが、その中で話しているのは二人だけのようだった。
どこかで聞いたことのあるような…蓮っ葉な男の声と
全く対照的な、冷たい聞き覚えの無い男の声。
『金…って言っていたけど、このひと達は、於荷屋から私を人質にして身代金をせしめるつもりなのね。
でも、どういう事なの。何で卍丸の名前をこのひとは知っているの?それに…卍丸を殺すってどういう事?』
混乱しかかる頭で、しかし絹はかろうじて自分を押さえた。ここで下手をすれば何も判らなくなってしまう。
「確かに一万両には心引かれる。だが、それ以上に私が狙っているものがある。
それが何か、判るか。菊五郎。」
「…へ…」
「それはな…大店、於荷屋の看板だ。」
低い男の声は、ここで一旦言葉を切り、ふーと大きく息を吐く。辺りに強く煙管の香りが漂う。
「我が根の一家は近江を手中にした後、西を制圧し、やがては関東へと向かうつもりだ。
それには武器が要る。あの短筒が大量に欲しいのだ。
だが、今は知っての通り外国から武器の輸入は固く禁じられている。
根で所有している短筒はほんの数丁。ホテイ丸とか言う外国人の宣教師が
船に積んでいたものを偶然手に入れられただけだ。
交易の為に於荷屋のような大店の隠れ蓑が欲しい。
聞けば於荷屋は全国で買い付けをしているそうだな。
於荷屋の看板を上手く使い外国とも交易を結び、やがては短筒を仕入れるつもりだ。」
「……へ、へえ」
「貴様と小僧の因縁などには興味が無い。さっさと終わらせて於荷屋に押し込む算段を考えろ。
お前を抱えたのは近江の内情につなぎがあるからだ。これから存分に働いてもらうぞ。菊五郎」
『なんですって!!』
絹は恐怖の為に叫びそうになるのを何とか堪えた。
『この人たち、於荷屋に押し込むつもりなの…?!そんな…そんな事になれば、お父様やお母様…店の皆は皆殺しよ!
でも…どうすればいいの?どうやって於荷屋に知らせればいいの?』
囚われの己の身を思い出し、絶望のあまり気が遠くなりそうになる。
『…卍丸…』
絶望の淵で、絹は男達の言葉の中に卍丸の名前が挙がっていた事を思い出した。
『私の身代金を届けに、ここに卍丸が来るのね。その時にどうにかして押し込みの事を知らせられれば…』
今の絹にとって卍丸の名前は暗闇に指す一筋の光であった。
『卍丸…お願い。どうか無事に私の所まで来て……!
そのためには何としても私が生き延び、この話を伝えなければ。
……たとえこの身に何が起きても。』
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そして、残し文の指定した時間より弱冠早い未の刻、カブキ屋敷前。
大男と小兵は門の前に立った。
「では、門を開けるぞ。卍丸。」
極楽の手で、カブキの屋敷の大門が開けられた。
卍丸は刀を手に、音も無く屋敷の中に滑り込んだ。