文鳥  

11.「陣羽織」

勢い良く横面を張り倒されて、只でさえ軽い卍丸の体は吹き飛ばされ、後ろの柱に背中からしたたかぶつかった。

あまりの衝撃に目が霞む。口の中も切れたらしく血の味が広がった。

それでも卍丸は、ともすると遠くなっていく意識を何とか引き戻し、再び畳の上に両手を付いて頭を下げた。

すると今度は思い切り蹴り上げられた。

もう一度後ろに飛ばされ、今度は後頭部を嫌と言うほど床に叩き付けたが、

卍丸は二、三度頭を振ると又元の位置に戻ってひれ伏した。

於荷屋屋敷内の主人の間。

二十畳はあろうかというその部屋に、卍丸が足を踏み入れたことがあるのは数える程だ。

今、その間で卍丸を殴りつけたのは於荷屋主人である。

「……ああ……」

余りの剣幕に、思わず部屋の外から見守る於荷屋の従業員達からも声が上がる。

「貴様!貴様が付いておきながら、絹を拐されるとは一体どうした事だ!!」

主人は体こそ大きいが温厚な性格で、店の者達は主人が声を荒げたり、怒りを露にした姿を見たことが無かった。

その主人が今は気も狂わんばかりに取り乱し、烈火のごとく卍丸を怒鳴りつけているのだ。

(無理もない)

卍丸は主人に殴られながらひたすら申し訳が立たなかった。

絹は主人夫婦が待ち望んでやっと設けた一人娘である。

女将は体が弱く、絹を産んだ際、もう子は望めないと医者にもはっきり告げられていた。

だからこそ主人夫婦の絹への愛情の注ぎ方はひとしおだった。

絹が囚われたと聞いて女将は気を失い、そのまま伏せてしまっている。

……あの時

(いつから琴の音は途切れていた)

はっきりと思い出せない自分が情けない。

事もあろうに屋敷の前にいながら異変に気が付かなかったのだ。

師匠の家に送り届けたら安心と、卍丸は油断していた。いつもならばこんな失態はしない。

怪しげな人間がこちらを伺っていないか通りに常に気を配り、師匠の屋敷から目を離す事など決してなかった。

あの時はともするとカブキにばかり思いを馳せてしまい、いつもの自分ではなかった事は自覚していた。

言い訳はいい。どんな理由であれ、自分は務めを怠ったのだ。

「……カブキ団十郎」

息を切らせた主人が呟くのを聞いて、卍丸はぴくりと身を震わせた。

「カブキ団十郎。店にも来た事があると言っていたな。

お前がとりなして追いやったと聞いたが。

わざわざ文にお前を名指ししてくるとは、カブキはそのことを恨んでいるのか?

あの男、噂では中々の人物のようだったが、所詮ならず者だという事か」

「申し上げます!」

卍丸は両手を付いたまま面を上げた。

「旦那様、この一件にカブキ団十郎が咬んでいるとは思えません。

カブキは今、所用のため近江を離れております。カブキがこの件に関わる事は不可能なのです」

「何……だと?」

一寸驚きを見せた後、主人の顔が再び憤怒の表情に変る。

「卍丸、貴様、何故そんな事を知っている。」

「……カブキ団十郎から、直接その旨を聞いたからです」

従業員達から「ああ」とも「ええ」ともつかない、ため息のようなどよめきが上がった。

「卍丸、今の自分の言葉を良く考えてみろ。

まさかお前、カブキ団十郎と組んでこの一件を仕組んだのでは無かろうな」

「違います!決してその様な……」

「旦那様!」

従業員達の中から、少年が一人飛び出した。

「俺、俺、昨日の荷卸の時、卍丸への繋ぎをカブキ団十郎に頼まれました」

ざわり、と従業員達のどよめきが大きくなる。

「それは本当か」

「ハイ。俺、心配して卍丸に厄介ごとに関わっていないか聞いたんですが

卍丸は心配するなと言い、カブキを良く知っているような口ぶりでした」

少年の顔は興奮のためか紅潮している。

目は使用人としての正義感に溢れていたが、

その中に、一瞬だけ隠し切れない妬みの光が暗くよぎった。

「……卍丸、事と次第によっては、お前を奉行所へ突き出さなくてはならないぞ」

卍丸は言葉もなく拳を膝の上で硬く握り締めた。

 

「卍丸は断じてその様な男ではありません!!」

今度は別の場所から声が上がった。視線が一斉に集まる。

人垣を掻き分けて現れたのは極楽であった。極楽は卍丸の横に両手をついて大きな体をひれ伏した。

「ワシは卍丸を信じております。きっと卍丸には何か訳があるのです。

よしんば今回の件に卍丸が関わっていたとしても、それはカブキの巻き添えになっているだけなのです!」

「極楽……」

頭を下げる極楽を見て、卍丸の胸は潰されるように痛んだ。

「卍丸、どうなのだ。お前は仕方なくカブキ団十郎に関わってしまったのか」

主人が卍丸に目を向けた。

卍丸は主人を見、続けて自分の為に土下座している極楽を見た。

そして一度、ごくりと唾を飲み込むと、頭を下げ、はっきりとした声でこう告げた。

 

「申し訳ありません。俺は、自分の意志でカブキ団十郎と係わりました。

決して成り行きで巻き添えを喰らっている訳ではありません。

それは、俺が自分でカブキ団十郎という男に関わって、信頼に足る人間であると確信したからです。

今一度申し上げます。カブキ団十郎はこの拐しには絶対に関わっておりません」

 

「貴様ァ……」

怒りの余り主人の顔が赤から紫へ変っている。

「卍丸、お前……」

極楽はもうとりなす事も出来ないと、ただ卍丸を見守る事しか出来なかった。

卍丸は頭を下げたまま微動だにしない。

「貴様、この期に及んでまだそんな事を言うか!!」

主人は樫の突っかい棒を取り、大きく振り上げた。従業員達の間から悲鳴が上がる。

卍丸は覚悟を決めると、頭を庇うように低く体の中に丸め込んだ。

 

「……?……」

幾ら待っても次の衝撃は来なかった。

不審に思って顔を上げてみると、自分と主人の間に黒い影を認めた。

それは心痛の余り先程まで臥せっていた於荷屋の女将であった。

女将は主人と卍丸の間に割って入り、卍丸を庇うかのように両手を広げている。

「退け!!」

樫の棒を振りかざしながら主人が女将を怒鳴りつけた。

「いいえ、退きません!!」

一歩も引かず女将は卍丸の前に立ちはだかった。

「あなた、しっかりなさってください!!

卍丸が今までどんなに私達に、絹に尽し抜いてくれたか

一番ご存知だったのは旦那様だったではありませんか!

卍丸がそんな大それた事をする子かどうか、良く考えてみればお分かりになる筈です!!」

普段はしとやかで、主人に口答え一つしたことも無い女将の横顔を、卍丸は驚いて見つめた。

しばしのにらみ合いの後

「……知っていた。」

からん、と音を立てて主人の手から樫の棒が滑り落ちた。

「知っていたからこそ……」

そのまま膝から崩れ落ち、主人は顔を覆って泣き崩れた。

従業員達の中からもすすり泣きの声が聞こえてくる。

「私は、卍丸を買っていた。息子とも思っておった。絹が卍丸を慕っていたのも知っていた。

私はな……いつか卍丸と絹を娶わせて、この於荷屋を二人で継いで欲しいとまで願っておった。

もはや絹が戻ったとしても、ヤクザ者と係わり合いになった卍丸をここに置いておく訳には行かない。

だからこそ、私は卍丸が許せん……許せんのだ……」

「……あなた……」

女将は主人に歩み寄ると、その小さく丸めた背を優しくさすって抱きかかえた。

見ている卍丸の目の奥も熱くなった。

主人夫婦を悲しませてしまった罪悪感と情けなさがないまぜになる。

(俺は、大恩ある大旦那様を、こんな形で裏切るようなまねをしてしまった……)

卍丸は硬く拳を握り締めると、力いっぱい畳に叩き付けた。

そしてもう一度、主人と女将に向かい、頭を畳にこすり付けるようにひれ伏すと

「大旦那様、奥様、お許しください。今回の件は全て俺の責任です。

明日を待たず、今より俺一人で指定の場所に参ります。

俺の命に代えましても、必ず絹お嬢様を無事にお連れ致します」

と告げた。

「……卍丸……」

主人は背を丸めたまま咽び泣いている。女将が卍丸に向かって返事をした。

「卍丸。絹の命が無事に戻ったとしても、万が一ならず者達に辱められでもしたら

あの子はきっと自ら命を絶ってしまうでしょう。あの子はおとなしいですが、芯の強い娘です。

どうか、お願い、卍丸。あの子を……絹を助けてやってください。この通りです」

女将は卍丸に向かって両手を付き、深々と頭を下げたのである。

 

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卍丸は使用人部屋に戻ると、自分にあてがわれていた行李を開けた。

その中には数枚の下穿きと、替えの着物一揃えが入っている。

この八年で得た卍丸の持ち物はそれが全てだった。

だが卍丸はこの於荷屋で、食事と暖かい仲間、そして主人夫婦からの信頼と愛情に囲まれて過ごした。

それはどんな持ち物よりも、卍丸にとって得がたいものであり

白川村を出て以来、この於荷屋で過ごした八年間は、確かに幸福であったのだ。

しかし今、自分はその全てを失った。

今振り返ってみても、自分に何一つ恥じる所は無い、と卍丸は思う。

カブキ団十郎と関わった事に関しても、後悔する気持ちは微塵も無い。

成り行きでも、仕方なくでもない。俺は自分の意志でカブキと関わる事を選択したのだ。

例え己が最善を尽したと思っていても、人には色々な思惑がある。

他人の思惑一つで、自分ではどうにも抗えない運命に流されていく事など、まま在る事なのだろう。

だからと言って己の最善を尽す事以外、人はどんな事が出来と言うのだ。

『卍丸。私は卍丸の味方よ。何があってもよ』

師匠の家に消えていく絹の笑顔が思い出される。

(俺はまだ失ってなどいない。)

卍丸はある覚悟を持って、行李の中身を取り出した。

(お嬢様のあの笑顔は、俺が守らなければ。)

於荷屋であてがわれた荷物の下に、白川村から出てくる時、たった一つだけ持ってきた荷物がそこにあった。

それは背中に卍の紋を染め抜いた、深紅の陣羽織だった。

卍丸の両親がまだ零落する前、産まれたばかりの卍丸に誂えた物である。

幼い主君を連れて落ち延びた時も、赤ん坊だった卍丸をその陣羽織に包み城を出たのだ。

七歳で親元を離れなければならなかった卍丸に、それは母がやっと持たせた品であった。

(まさかこれを羽織る事になるとは思わなかった……)

卍丸は深紅の陣羽織を身につけると、今まで着ていた着物を行李に戻した。

お預かりしていたものは、全てお返ししましたという卍丸なりのけじめである。

これで卍丸は本当に身一つの体となった。

帯に使い慣れた剣を差し込むと、下緒に赤い匂袋を結びつけた。絹から贈られた匂袋である。

卍丸は手早く身支度を整え、使用人部屋を出た。

主人の部屋から出て来た卍丸を案じ、使用人たちはしばらく遠巻きに様子を伺っていたが、

先の主人の剣幕に圧倒されて声を掛ける事が出来ずにいた。

やがて卍丸が部屋に閉じこもると、めいめいに自分の仕事に戻っていたので、

廊下はしんと静まり返り誰一人としていなかった。

卍丸は使用人たちに気が付かれない様、裏木戸からそっと於荷屋を後にした。

於荷屋からすこし離れた後、卍丸は振り返り、慣れ親しんだ於荷屋を仰ぎ見た。

(もう、俺は、ここに戻れないんだな。)

八年間、自分を守ってくれた店。色々な想いが胸を去来する。

卍丸は一人、深々と店に頭を下げると、踵を返し、指定の場所へ歩を進めようとした。すると

「おい、卍丸」

背中から不意に声を掛けられ、卍丸は驚いて振り返った。

そこには自分と同じように戦支度に身を包んだ極楽が、笑いながら立っていた。

「極楽!何で此処に……それにその格好、一体どうしたんだよ!」

目を丸くして訪ねる卍丸に、事も無げに極楽は言った。

「卍丸。お前このワシにも挨拶無しで行くとは水臭いぞ。お陰で危うく置いてけぼりを食らうところだったわい。

なあに、ワシも最近鈍っておってな、一つ助太刀と称して大暴れしてみようかと思っての」

「極楽……」

胸の奥が熱くなる。しかし卍丸は毅然と言った。

「極楽、気持ちはありがたいが駄目だよ。これ以上極楽や店に迷惑はかけたくない。

今度は店に戻った極楽が、旦那様にお叱りを受けてしまう。」

「知っておる。」

「……え……」

「旦那様は知っておられる。ワシは旦那様にお許しを頂いて此処に来たのだ」

「……!」

卍丸は息を呑んだ。

「卍丸、旦那様はな、何も絹お嬢さんが拐された事だけであんなに怒ったのではないぞ。

勿論それが一番の理由であることは間違いない。

だがな、卍丸。旦那様はお前を失う事も含め、あんなにお前を叱ったのだ。

今もお許しを戴きに行ったこのワシに、お前を頼むと頭を下げて頼まれたのだ。

下働きに過ぎないお前をそこまで買ってくれた旦那様を、恨むんじゃないぞ。卍丸」

極楽の言葉に、堪えていたものが噴出しそうになる。

まだだ。今はまだ泣く時ではない。

「はい。」

「何、お前の事だ。無駄な事を言ったかの。

さあ、お嬢さんが心配だ。後は歩きながら話そう。」

そう言うと極楽は卍丸の先に立って歩き出した。

そうだ。この大きな背中。俺はこの背中に追いつきたくて剣を振るったんだっけ。

俺が困った時は何も言わず手を差し伸べてくれた。

今も何も聞かずに手を差し伸べてくれる。

その大きくて暖かい背中に卍丸は「ありがとう、極楽。」と声を掛けた。

 

「しかしな、卍丸」

早足で歩を進めながら極楽は問いかけた。

「うん?」

「幾らお前がカブキを庇っても、金の受け渡し場所は火の一家の屋敷だぞ。

矢張りカブキが一枚咬んでいると考えるのが妥当ではないのか?」

卍丸も歩を緩めずに、それに首を振って答える。

「傷……」

「何?」

「師匠たちを殺めた傷は刀傷じゃなかった。 刀傷なら、あるいは俺もカブキを疑ったかもしれない。

死体に残っていた傷は小さい孔だった。

あんな風に人を傷つける飛び道具について、俺は丁度カブキから聞いたばかりだったんだ。

その道具は近江じゃ…いや、普通には手に入らない代物なんだよ。」

卍丸は炭小屋でのカブキの話を思い出しながら言った。

しかしあの話が真実なら、根の一家はどう絡んでくる。

「カブキはこの件に関しては無関係だよ。そう言えるだけの理由は実は他にもあるんだ。

……極楽は、あの手紙を見て、何か気づかなかった?」

「手紙……そうさな。やはりお前を名指ししてあった事と、カブキ団十郎の名前があった事かの」

「うん。そうだよね。幾らカブキが目立つのが好きだからって、わざわざ悪事まで触れ回る必要はないよ。

俺は、今回の件は、カブキに濡れ衣を着せるために仕組まれたものだと思う。

それで、それを仕組んだ人物に、俺は心当たりがある。」

卍丸は菊五郎の金髪の髷を思い出しながら言った。

極楽は目を丸くしつつ聞き返した。

「本当か?卍丸」

「うん。後もうひとつ、あの手紙で気が付いた事がある。

『申の刻(午後四時)』に金を持ってくる様に指定してあっただろう?これは多分……

敵は、俺の目の事を、知ってる」

「何だと?!」

極楽は驚いて空を仰ぎ見た。まだ日は高く上っているが、昼はとうに過ぎている。

敵が卍丸の夜目につけいるつもりならば、夕闇が迫るまでの勝負だ。

二人の足は自然と早くなった。

「極楽、前カブキが於荷屋に来た時、カブキを案内して来た金髪髷の男を覚えている?

俺はあの男が今回の件の黒幕だと思ってるんだ。

俺とカブキ、両方に恨みを持っている人間なんてその男しかいない。

そして俺は一度、あの男と夕方やりあった事がある。

恐らくその時にでも俺の目のことに気が付いたんだろう。

だとしたら、わざわざカブキのいない時を狙って夕刻に俺を呼び出してきたという事は

狙いは於荷屋でも金でもない。俺だ。俺の命だよ」

「……卍丸」

「だから、そういう意味ではお嬢さんは無事だと思う。

何にしてもあんなならず者の中に何時までもお嬢さんを置いておく訳には行かないけど。」

絹を目の前で拐されて、住んでいた家を追われ、今また命を狙われているというのに

卍丸のこの胆の据わり方はどうだろう。と極楽は思った。

もとより聡い子だとは思ったが、取り乱す事も無く、的確に事態を理解している。

感情だけでカブキを庇ったのではなかったか。

「ただ、俺の話はカブキの話が本当だとした上で成り立ってるから、

得物の飛び道具の話を含め、カブキの話が全て作り物だとしたら根底から成り立たない」

卍丸は少し考えて言葉を続けた。

「でも、甘いかもしれないけど、それでも俺、カブキを信じたいんだ。」

「卍丸……」

真っ直ぐに顔を上げて、きっぱりと卍丸は言った。

「極楽。前にカブキと関わるなって忠告してくれたよね。

こんな事になって極楽には申し訳ないと思ってる。でも俺、カブキと関わった事、後悔してない。」

余りの視線の真っ直ぐさに極楽は少なからず驚いた。

卍丸の瞳には後悔や後ろ暗さは微塵もなかった。

そこで極楽は豪快に笑うと、こう言った。

「ワシがお前なら、カブキ団十郎に全ておっかぶせて尻をまくっている所だがな。

カブキも随分とお前に買われたもんだ。

良かろう。お前がカブキを信じたなら、ワシはお前を信じるぞ。

お前とワシとで、一つ大暴れしてやろうじゃあないか」

「極楽……」

 

二人はやがて、近江の繁華街の中心にある大きな屋敷の前に立った。

ここは元は近江への観光客や旦那衆が遊びに利用する旅館であった。

それを数年前に買い上げたのは、当時近江で頭角を現しつつあったカブキ団十郎である。

カブキは名実共に近江を手中に収めた事を内外に知らしめるために

この、いわば近江繁華街の象徴でもあった旅館を手に入れたのだ、と当時の人々は囁きあった。

が、実の所、この旅館の派手で洒落た作りが、カブキの大いに気に入ったと言うのが本当の所かもしれない。

その佇まいは於荷屋の重厚で質実な作りとは正反対だ。

卍丸は一度、三年橋の危急をカブキに知らせるために、この屋敷を訪れた事がある。

その時は門前ですげなく追い払われた。

こんな形で、又ここに立つとはその時の卍丸には思いもよらない事であった。

「……極楽」

「何だ?」

「さっきも言ったけど、カブキはこの件には無関係だと俺は思ってる」

「承知したぞ。卍丸」

「だけど、極楽が言ったように、ここを金の受け渡し場所にして来たって事は、

火の一家まで無関係とは思えないんだ。」

「……」

「実際、俺が黒幕だと踏んでいる男……菊五郎もカブキの配下で火の一家だ。

今まで俺は、カブキの身内に対して手を下した事はない。」

卍丸はここで少し口をつぐんだ後、決意を新たにするように顔を上げると、極楽の顔を真っ直ぐに見た。

「極楽。俺はこの先、この屋敷で俺にかかってくる敵を、カブキの敵か味方かを判断して

倒していく余裕は、無い。もしかしたら菊五郎に踊らされているだけの、カブキの配下もいるかもしれない。

でも、俺は、この中で俺にかかってくる相手は、片っ端から斬るつもりだ。」

それは於荷屋を出て、絹を助け出すと決めた時に卍丸が固めた覚悟であった。

身内を大切にしてきたカブキの事だ。今から俺がしようとしている事を知ったら、俺を決して許さないだろう。

(カブキ、俺、もう、カブキに会えないかもしれない。でも、俺は俺の守るものの為に、精一杯の事をするつもりだ)

「卍丸……」

卍丸の悲壮なまでの決意を目の当たりにし、極楽もかけるべき言葉を一瞬失った。

(卍丸。お前も難儀な奴だなあ。旦那様に逆らい、於荷屋を出されてまでカブキを庇ったお前が

於荷屋への筋を通すために、今度はカブキを失う覚悟で事に望もうとしている)

しかし、極楽はにやりと笑うと、顎を撫でながらさらりと言ってのけた。

「ま、それもお前らしいと言えばお前らしいな。なんせ八年の付き合いだ。

ここまで来たら地獄まで付き合うか。」

極楽の不敵な顔を見て卍丸は大きく頷き、刀に手をやると極楽に言った。

「俺は先に立ってお嬢さんを探す。極楽はしんがりを務めてくれ。

お嬢さんを見つけた時の退路を確保して欲しいんだ。」

「判った。」

「俺の目の事もある。とにかく速さ勝負で行くよ、極楽。一刻も早くお嬢さんを見つけ出すぞ」

「任せろ、卍丸。では門を開けるぞ。いいな。」

極楽は門に手をかけた。卍丸は抜刀すると、門が開くのを構えつつ、待った。

 

文鳥12「永の別れ・1」へ続く。