文鳥  

1.「卍丸」

不届き者達が仲間を呼びに行くよりも早く勝負は決まっていた。

一目で「堅気ではない」と判る男達が5人、腕や腹をめいめい押さえながらその場で呻いている。

蹲る男達の中に息も乱さず立っている人影が見える。まだ少年のようだった。

少し幼さの残る顔立ちだが、不似合いなほど瞳だけが凛とした光を放っている。

光の加減か、その瞳は紅く燃えるようだ。

無造作になびかせている紫色の髪がいっそう紅い目を引き立たせた。

きちんとした性質(たち)なのだろう。身なりは質素だがこざっぱりとした清潔感が漂っている。

今の立ち回りで少し乱れた着物をきちんと正し

「お嬢さん、行きましょう」

と、少年は男達を倒す前と全く同じ声音で話しかける。

「…ええ。ありがとう、卍丸。怪我はないの?」

お嬢さんと呼ばれた娘は、卍丸と呼んだ少年よりは幾分取り乱していたようだ。

抑えた声が震えている。

卍丸は安心させるようににっこりと笑いかけながら頷いた。

「大丈夫ですよ。絹お嬢さん。さあ、早く行かないと琴の先生がお待ちですよ」

 

ここは近江「於荷屋」

取り扱う商品は反物・着物・帯・仕立等々。その質・品揃え共に近江一番の大店と、地域一帯の評判も高い。

主人、女将を筆頭に30人もの店子を抱える大所帯である。

大所帯ながら、大らかで豪快な主人と、細やかでまめまめしい女将との采配で

「於荷屋」はこれまで大きな問題もなく順調に商いを行ってきた。

 

「於荷屋」の宝は主人夫婦の一人娘、絹。齢14歳になる。

商品になぞらえて付けられた名前の通り、控えめながら美しく、聡明な少女である。

主人と女将は深窓の令嬢である絹をまるで掌中の珠のように慈しんでいた。

大店の娘はしかるべき縁談のために花嫁修業として数々の習い事をするのが慣わしである。

「於荷屋」の絹もまた幼い頃からさまざまな習い事を修めてきた。

絹が幼少の頃は師匠を屋敷に呼んでいた事もあったが、年頃になると娘を屋敷に閉じ込めておくわけには行かない。

いずれどこかの大店の女将になる身でもある。世間ずれさせて、世の中を知らない箱入り娘になっても後々困るだけだ。

そんな訳で絹も週何度かは習い事と称して外出を許される身となった。

但し無論一人歩きとはもってのほかである。

そこでお目付け役件用心棒として絹に仕える事になったのが、先に卍丸と呼ばれた少年であった。

 

卍丸は元々、近江から離れた火多の国、白川村の生まれである。

白川村は畑と田圃に囲まれた、これといって何もない田舎であった。

とはいえ卍丸は白川村に何の不満を抱いていたわけではない。

平和で静かな村を卍丸は愛し、いつかはここに自分も居を構え

家庭を持って平凡に一生を終えるのだろう、とそこはかとなく思っていたのである。

 

卍丸には物心付いた時から父はいなかった。

最初から父の面影がないということは、卍丸にとってそれが普通の状態であり

特別に自分を不憫だとか不幸だなどと思ったことはない。

ただ、母は時々卍丸に

「父さんがいれば今頃お前にも美味しいものを食べさせて、立派な着物を着せてあげられるのにね。」

とぽつりぽつりと話す事があった。

母はこの村の出身ではないらしい。

父も又別の(卍丸が知らない大きな町であったらしい)生まれで、ある君主に仕えていたと母は話していた。

しかし所謂お家騒動により、平和なその家臣一家の運命も一変する

卍丸の父と、その奥方であった母は、幼い君主を城下から落ち延びさせるために町を出たのであった。

卍丸はその1年前に生まれたばかりであった。

父と母は幼い我が子と君主を重ね合わせ、見殺しにすることが出来なかったのであろう。

君主は無事に隣国の庇護に迎えられたが、道中、父は母と君主を逃がすために命を落としたそうである。

母は悲しそうにその話をするが、しかし父のとった道と、それに従った自分に後悔はしていないと言う。

「だけど、お前にだけは申し訳がないと、それだけが気がかりで…」

それを聞く卍丸にとっては、寧ろ城下で過ごす自分の方が想像できなかった。

父がいないのと同じように、自分の生まれがどうであっても、今ここに存在する自分が普通であり、

自分は白川村で静かに暮らす卍丸以外の何者でもなかった。

 

そんな卍丸が村を出ようと思い立ったのは7歳の頃である。

その年は記録的な飢饉であった。

農作物が村の全ての収入源であった白川村にあっては、飢饉が起こればひとたまりも無かった。

幼い卍丸を抱えて母は昼夜と無く働いた。

農作業を終えた後、近くの村で請け負った仕立てやわらじ編みなどの内職を夜遅くまでやっていた。

明かり取りの油が勿体無いと言うので、月明かりの中で背を丸めて慣れない仕事をする母の姿を

今でも卍丸は忘れられない。

若く美しい、元はやんごとない身分であるらしいという評判の母に、よからぬ下心で近づいてくる輩も少なからずいた。

しかし、母は生活のために身を委ねるという事だけは決してしなかった。

卍丸もいつしか母を守るために、子供ながら剣を(真剣ではなかったが)振るう事も覚えた。

しかし、そんな母の体力もついには尽きた。

仕事をするために起き上がることも出来ず、しばらくは健気にも卍丸が働いて

わずかばかりの食べ物を貰ってきたりはしていたのだが、それにも限界があった。

もう、口にするものもなく、このまま共倒れになってしまうのかというときに、親子に声をかけてきたのが

たまたま母が請け負っていた仕立物の卸先「於荷屋」の主人であった。

主人には卍丸より一つ年下の娘がいた。

かつて卍丸の父が君主に我が子を重ねたのと同じように、主人にはその娘と卍丸がやはり重なったのだろう。

「卍丸。わしの家に奉公に出なさい。わしの家には娘が一人いる。

娘は家から殆ど出る事はない。娘の遊び相手が欲しかったのだ。

むろん、奉公人としてキチンと働いてもらうよ。しかし、お前の食い扶持だけは必ず面倒を見てあげるし

支度金としてお母さんにもそれ相当のお金を渡してあげよう。」

卍丸には断る理由は何も無かった。むしろ渡りに船と、於荷屋の主人が正に救いの神に見えたものだった。

 

こうして卍丸は村を出る事となった。

村を去る朝、母はごめんなさいごめんなさいと卍丸の頬を撫でて泣いた。

謝る事も泣く事もない。自分の出来る事をするのは当たり前だ。

卍丸にしてみれば不憫なのはむしろ母の方だった。

自分と違い、いい暮らしも知っていたのだろう。何の苦労も知らなかったであろう母が

この何も無い村に落ち延び、幼い子供を抱えたまま夫も失ったのだ。

しかし卍丸の知っている母の姿は、くよくよしたり泣き言をいったりはしていなかった。

いつでも自分のとった行動に誇りを持って、キチンと前を向いて歩いているひとだった。

卍丸は幼いながら母のその姿を見て育った。

そしていつも自分もそうあろうと、どこに住んでもどんな暮らしをしていても、

母に恥じない自分であるようにと心に誓って村を後にしたのである。

 

「於荷屋」での卍丸の評判は誠によろしかった。

初めて白川村を出た卍丸は近江の町の大きさに最初は驚き、戸惑った。

しかし、元々は好奇心旺盛な少年であった。大きな瞳をくるくるさせて町のいたるところを見渡し

興奮気味に於荷屋に到着したのであった。

「絹、絹、戻ったよ」

主人が使用人に足洗いの準備をさせながら

大男には合わない優しげな声で奥に声をかけると、程なくして軽い足音が近づいてきた。

絹と呼ばれた少女は見慣れない少年を父の傍に見つけると、母の背後に隠れておずおずと顔を出した。

「これ、お前は本当に人見知りで困るよ。この子は卍丸。今日からここで働く奉公人だよ。

歳も近い事だし、暇をみてお前も遊んでもらうといいよ。」

目を細めて主人が絹に話しかける。

その格好に危うく吹き出しそうになりながら卍丸は絹に笑いかけた。

「絹おじょうさま。卍丸と申します。いっしょうけんめいはたらきます。よろしくおねがいいたします。」

たどたどしくもしっかりとした口調で卍丸は挨拶をした。

その様子に主人と奥方は驚きで目を見合わせた。

絹は頬に朱を上らせて、母の後ろにいっそう小さくなった。

 

卍丸は幼いながら良く働いた。

白川村の頃から一日中働いていたので、動く事には何の苦もなかった。腹の心配をしなくていいのが何よりも有難かった。

教えられた事は一度で飲み込み、骨惜しみせず働いたので、気働きの出来る子だと可愛がられた。

何でも美味しく食べ、よく笑い、気取らない優しい気質は誰にも愛された。

驚くことに、普段は両親と、限られた使用人にしか話しかけられなかった絹も

卍丸にはやがて信頼を寄せ、笑顔を見せるまでになった。

二人は兄妹のように、だがしかし卍丸は、絹は主人の娘であり自分は使用人であるとの分をわきまえつつ成長した。

いつもは奉公人に厳しい番頭の足元も、あの子は拾い物ですよと主人に話し、主人もそんな卍丸を見て満足そうにうなずいた。

 

そして8年が過ぎ、卍丸15歳、絹は14歳を迎え、通いで稽古に町に出る事になった時も、

主人夫婦の信頼も篤い卍丸が、絹に付き従うようになったのも当然の成り行きだったと言える。

しかし、幼い奉公人であった卍丸が少年に成長し、いつしか自分の背を超えるようになってから、

絹が卍丸を見つめる目に熱が篭って来たのに、果たして周囲は気が付かなかったか。

卍丸は背こそ絹こそ少し高かったが、無駄な肉は殆どついておらず、細いが程よく筋肉のついた手足はしなやかに伸びている。

いつも前を向いており、静かな光をたたえた瞳は、歳よりも大人びて見えた。

尖った顎の下には、男にしては(それはまだ少年だからかしら、と絹は思った)細い首がついており、その喉に、

少年から青年へ変わる尖りを見つけた時、絹の胸が大きく跳ねた。

卍丸は私の気持ちを知っているのかしら。いえ、知らないほうが良い。知られたらきっとこのままではいられなくなってしまう。

卍丸と出かける日を待ち遠しく思っているのに、出かける理由は絹の花嫁修業だと思い出す度、絹の胸は複雑に揺れた。

 

その日も、いつものように支度をして琴の師匠の所へ向かう道中であった。

卍丸は濃紺の風呂敷に稽古道具と先生への手土産を包み、絹の後に付き従っている。

まれに絹が甘味処に寄りたがる事があり、少しならばと卍丸が目をつぶることもある。

そんな時も卍丸は決して店まで同席することは無い。

店の前に立ち、絹の方を気にかけながら、目は油断無く通りを見つめている。

卍丸は用心棒としての自分の責務を果たそうとしているようだった。

(でも、あんなに細い卍丸に用心棒なんかが勤まるのかしら)

若い男性が付き従っているだけでも、女の一人歩きには心強いのだろう、と

絹は気休めくらいに思っていた。

だから、その日「いかにも」といった風情の男に声を掛けられた時、絹は自分の身よりも卍丸を案じたものだった。

 

「おねえさん、澄ましていないで俺たちといい所へ遊びに行かねえかい」

派手な着物に、金色の髷、桃色の隈取の男が絹に酒臭い息を吹きかけた。

黙ってやり過ごそうとすると、別の男が絹の行く手に立ちはだかった。

大きい声で商売女にちょっかいをかけていた男が二人、金髪と絹の前の男に気が付いて輪に加わる。

下がろうとしたら別な男が退路を絶った。

「……止めてください」

表情を変えまいとするが、声が震える。

「止めてください、だとよ。カワイイ声出しちまって。」隈取が下卑た声で笑った。

「怖がるこたぁねえよ。俺たちゃ……」

「お嬢さんに、触るな。」

 

輪の外から押し殺した声が聞こえた。

男達がいっせいにそちらを見る。

まだ子供と言っても良い位の少年が、燃えるような紅い目をしてこちらを見ている。

激した様子は無いが、それがいっそう殺気を放っているようだ。

「あァ?ナンだテメェは!」

「お嬢さんに、触るな」

同じことを繰り返す。しかし今度は左手がかすかに動いていた。

卍丸は絹と外出する時、於荷屋から刀の携帯を許されていた。

右手は鍔を切っていた。

男達の顔色が変わる。

 

「いけない!卍丸!逃げて!」

思いがけなく大きい声が出た。

声に弾かれるように男達が卍丸に飛び掛った。

いけない。卍丸を助けなきゃ。助けを呼びに行かなくちゃ。

そう思って踵を返そうとした絹の目に映ったのは、

みね討ちで次々と男達を打ち倒す卍丸の姿だった。

 

卍丸は背を低く構えたかと思うと、低く風を切る音を立てて腹や脛に剣を打ち込んで行った。

先に飛び込んでいった男達が卍丸に剣を振り下ろすいとまも与えない程の素早さだった。

(卍丸があんな事を……)絹は驚きで目が放せない。

卍丸にしては、母を守るために白川村で覚えた剣の技を、

今度は用心棒としての責務を果たすために磨き続けてきただけのことであった。

あっという間にそれは終わった。

卍丸の息は上がってすらいなかった。

そして全てを終えた後に絹を見やり、

「お嬢さん、行きましょう」

と言った。

絹は声が震えるのを止められず、それでも

「…ええ。ありがとう、卍丸。怪我はないの?」

と言った。

その絹の様子に、卍丸は頷きながら

「大丈夫ですよ。絹お嬢さん。さあ、早く行かないと琴の先生がお待ちですよ」

とにっこりと笑いかけた。

 

 

文鳥2「カブキ団十郎」へ続く。