文鳥  

最終話.「文鳥」

 

カブキ団十郎の屋敷の一件があってからひと月が過ぎたが

未だ火の一家の話は近江から京に掛けての絶好の娯楽であった。

カブキ団十郎は死に、火の一家は根の一家との抗争の上相打ちで壊滅。人々はそう噂した。

瓦版も沢山刷られ、於荷屋も渦中の店となった。

於荷屋と裏家業の黒い噂も無責任に語られ、すると今までの得意先も少しずつ距離をおくようになった。

当の於荷屋は何事も無かった様に淡々と商いを勤めていたが、心配なのは店の評判だけではない。

むしろ深刻なのは絹の評判と言って良かった。

元々絹は深窓の令嬢ながらその愛らしい容姿で、本人のあずかり知らぬ所で評判の小町だったのだ。

その絹がこの度の事件で、一時でもかどわかされたと言う噂は、何処からとも無く世間に広がった。

かどわかされたと言う噂はいつの間にか下種な尾ひれも付き

いずれは我が家の嫁にと密かに打診のあった店から、話をうやむやにするような便りがいくつかとどいた。

於荷屋主人もお内儀も絹を思って胸を痛めたが、周囲の雑音も聞こえない程本人の心痛は他の所にあった。

勿論、卍丸の事である。

卍丸の亡骸が見つかったと知らせを聞いてから、絹は自室に籠もってふさぎこむようになっていた。

お内儀や下女が様子を窺うと、健気にも

「大丈夫よ。心配掛けて御免なさい」

と微笑むのだが、その顔色は一層蒼く、食事も殆んど取れていないのが見てとれた。

主人もお内儀も、縁談などはもはやどうでも良い。

とにかく絹の気が晴れますようにと願うばかりであった。

 

絹はその日も自室から、何とはなしに庭を眺めていた。

稽古事以外殆んど外へ出た事の無かった絹は、此処から眺める景色が大好きだった。

広い庭には四季折々に楽しめるような木が植えられていて、絹の目を楽しませてくれた。

またその中で立ち働く人々の姿を見るのも好きだったのだ。

『卍丸…』

幼い頃はこの庭で卍丸と遊ぶ事もあった。

長じてからは卍丸が時折庭先で働くのを見かけては胸を躍らせた。

でも、もう、この庭に卍丸が戻る事は無い。

絹の瞳から涙が溢れた。

諦めなければと思うのに、感情と理性が引き剥がされて血を流す様に心が痛んだ。

あれ以来、あんなに好きだった琴に触れてもいない。稽古事も全て止めた。

送り迎えしてくれる卍丸が、もういない事を改めて思い返すからだ。

「うっ……っ…う…」

涙と共に嗚咽が漏れる。

『どうすればいいの、卍丸。私一人で。あなたを忘れるなんて、とても出来そうにない…!

私はこれから、何を支えに生きていけばいいの…!!』

絹は口元を押さえ、こみ上げる嗚咽を堪えようとした。

 

『今までご厄介になった八年間、俺、本当に幸せでした。』

 

背中を丸めて泣いている絹の耳に、ふと卍丸の声が蘇った。

 

『於荷屋とお嬢さんはただ生きるだけだった俺に、生きる喜びと心をくれたんです。

だから俺は、俺を本当の意味で生かしてくれた於荷屋とお嬢さんを守りたい。』

 

「於荷屋…」

 

『店に戻られてから、きっと口さがない事を言う輩もいるでしょう。

ですが心を強く持って、どうぞ健やかにお過ごしください。

俺は何時でも、どこにいても、お嬢さんの幸せを祈っています。』

 

絹は頭を上げた。

そうだ。卍丸がそれこそ命を掛けて守り抜いたのは、自分と店ではなかったのか。

それなのに、自分は、いつまでこうしてここで泣いているのか。

 

『俺は何時でも、どこにいても、お嬢さんの幸せを祈っています。』

 

「卍丸…」

 

卍丸。そうね。私は、幸せにならなくてはいけないのね。

 

次の朝、準備に忙しく立ち回っている足元や使用人たちは、店先に姿を見せた絹に一斉に手を止めた。

絹はいつものような娘らしいいでたちではなく、すっきりとした紺の着物を纏っていた。

「お、お嬢様…もう、大丈夫なんでやんすか?」

「ええ。店が大変な時に、迷惑をかけて御免なさい。」

絹は従業員達に頭を下げた。これには一同一層驚いた。

「お嬢様!お止めください!あたしらに頭なんぞ下げないで下さい。それにしても、何ぞ店の方に御用でも?」

足元が尋ねると、絹は恥ずかしそうに笑い

「ええ。実は私も少しは店の勉強をさせてもらおうと思ったの。これからは色々と教えてください。足元」

絶句する使用人たちを前に、絹ははっきりとそう告げた。

そしてその日、絹は慣れないながらも店頭で忙しく立ち働いた。

奇しくも卍丸の四十九日の朝のことであった。

それから絹は毎日店に立ち続け、客あしらいや品物について、砂が水を吸い込む如く次々と吸収していった。

働いている間は、余計な事を考えずに済むのもありがたかった。

最初の頃こそ主人もお内儀も絹の姿に何か物言いたげな姿であったが、それでも止める事もなく絹を見守っていた。

一度だけお内儀が

「無理をして店先に出る事もないのよ。色々煩わしい事もあるでしょう」

と絹を労った。確かに噂の娘を拝んでやろうと言う下心で、店を訪れる者も少なからずいたのだ。

すると絹は、意にも介さない様子で

「あら、こんな時ですもの。私目当てでも店においでくださるのならお安いものよ。私は噂の鬼小町ですもの」

とすまして言った。

絹はもう、守られるだけの深窓の令嬢ではなかったのである。

 

良いにしろ悪いにしろ評判と言うものは面白いもので、於荷屋のそれは、必ずしも客離れを招くものではなかった。

最初こそ黒い噂に、遠巻きに様子を見ていた人々だったが、絹が店頭に立ってからというもの

その姿を一目見ようと言う物見高い見物人や洒落者、

果ては買い物に駆けつけて事の真相を聞き出そうと言う物好きまで訪れて

皮肉な事に於荷屋の身代は大いに繁盛したのだ。

最初取引を見合わせていた得意先も、於荷屋望みの客などが現れるとそうも言っておられず

そうなると元々評判の良い於荷屋の品は飛ぶように売れていった。

しかも絹が店頭で客に勧める着物は、品良く気が効き洒落ており

やがて鬼小町に見立ててもらいたいという客が、男女問わず押しかける様になったのだ。

こうして絹は、於荷屋の店頭に欠かせない看板娘となり

主人もお内儀も、絹はもう大丈夫と安堵で胸を撫で下ろした。

やがて忙しい日常の中、事件の記憶は人々の中から徐々に薄れ、そのうち語る者もいなくなった。

こうして二年の月日が経ち、於荷屋の構えが更に大きくなった頃

絹の縁談が降って来たのであった。

 

*********************************************************************

 

「お嬢様!そろそろお時間でございますよ!絹お嬢様!」

「はあい。もうしばらくしたら参ります。」

絹は十七歳になっていた。

その顔からはすっかり少女の面影は去り、今や匂い立つような美しい女性へと花開こうとしていた。

大安吉日の今日、絹はいよいよ慣れ親しんだこの於荷屋から、望まれて京の呉服店に嫁ぐのだ。

嫁ぎ先は於荷屋と長い付き合いのある大店であった。

商談で何度か於荷屋を訪れた若旦那が、店で絹を見初めて縁談を申し込んだのである。

縁談を申し込む文が届くと、絹は

『自分はどこかに嫁ぐなどと考えた事はなく、死ぬまで於荷屋に尽くそうと思っている。

鬼小町と呼ばれた自分にご厚情をかけていただき有難うございます』

と、丁重に断りの文を返した。

すると男は今度は直接於荷屋に足を運び

「噂は存じ上げた上で、この縁談を自分から父母に申し出ました。

自分を憎からず思っているのなら今一度考えて下さいませんか」

と絹に告げたのだ。

男は呉服屋の若旦那らしい柔らかな物腰であったが、自分を見つめる目には強い意志があった。

絹は男の誠実な人柄に対し、このひとに嘘偽りなどしてはならないと今までの経緯を全て打ち明けた。

今まで誰にも話したことのない事の顛末、自分の気持ち。

無論卍丸のことも語った。あの事件以来、卍丸の話をするのは初めてだった。

 

長い語りが終わった。

全てを話し終えると絹は軽く疲れを感じ、そっと息を吐いた。

話している間は内面を吐き出すのに一杯で、相手の事を思う余裕は無かったのだが

話し終えて我に返ると男の反応が気になり、思わず顔を上げその眼を覗き込んだ。

今までの物好きな客のように、私を冷やかして

いい話の種ができたと店に帰って触れ回すのかしら。

『それでもいいわ。』

絹はそう思い、男の言葉を待った。

男は、話し終えた絹をじっと見つめていた。

その眼差しは話し始める前と何も変わらず

侮蔑の色も、好奇の色もそこにはなかった。

そして絹に向かい一言

「つろうございましたな」

とだけ優しく告げた。

その言葉を聞くと、絹の瞳にふいに涙がこみ上げた。

絹は驚き、狼狽した。

自分でも思いがけない事であった。店に立ち続けてから、涙など流した事がなかったのだ。

だが溢れる涙は止まらない。

「教えてくださって嬉しかった。気持ちを整理するのは難しかろうと思いますが

お嫌でなければあなたがこの荷物を半分分けてくださるのを、私は辛抱強く待ちますよ。」

男は言った。

その言葉は頑なだった絹の心に暖かくじんわりと染み透り

そして男は言葉通り絹を、今日のこの日までじっと支え続けたのだ。

 

 

絹は自室の片づけを終え、改めて自分を育んでくれたこの家を仰ぎ見た。

感慨深げに見回すと、庭に下りて慣れ親しんだ景色を最後に眺めた。

庭木の間を歩いていると、やはり色々な思いがこみ上げる。

卍丸を思って泣いたあの日。店に立ち始めて三年が経っていた。

三年…

その間に於荷屋は更に大きくなり

長年勤めた奉公人の幾人かは、於荷屋の暖簾を持って近隣の国で店を興していた。

そうやって出て行ったものに代わって新しい奉公人が入り、於荷屋の顔ぶれも随分代わった。

極楽は昨年、千代という名の気立ての良い嫁を向かえ、於荷屋を出て所帯を持った。

今は通いで於荷屋に勤めている。

そして、今日、自分がこの於荷屋から出て、新しい世界に旅立つ。

三年と言うのは短いような、それでいて長く感じられる月日であった。

そんな事を思いながら庭を眺めつつ、裏木戸の辺りを通りかかった時

扉の辺りでコトリ、と小さな音がした。

「…?何かしら…?」

気のせいかと思った。

だから何の気なく戸を開けて覗いてみた。

そして。

「?!」

 

絹の息が詰まった。

 

裏木戸の扉に、見覚えのある匂袋が下げてある。

絹は震える手で匂袋を取り上げた。

『間違いない…』

それは昔絹が手ずから作って卍丸に渡した、その匂袋に間違いなかった。

絹は通りに走り出て辺りを見回した。

しかし道に人の気配は無い。

立ちすくむ目の端に、赤い陣羽織がよぎった様な気がした。

 

『俺は何時でも、どこにいても、お嬢さんの幸せを祈っています。』

 

……そうだったわね……

 

絹は匂い袋をきつく握り締めた。

あなたは私を、どこかの空で見守っていてくれているのだったわね。

 

「お嬢様、こちらにおいでになりましたか。」

そう声を掛けたのは極楽であった。

「皆、探しておられますよ」

極楽は庭から、通りに立つ絹を呼んだ。絹はそっと涙を拭いながら門をくぐった。

その様子に、極楽がおや、という顔をした。

絹はふ、と息を吐くと

「…今ね、卍丸のことを思い出していたの。」

と静かに言った。

「お嬢……いえ、絹様」

かすかに狼狽した極楽を安心させるように、やわらかく絹は笑った。

「ねえ。極楽。卍丸はきっと、喜んでくれるわよね」

その瞳に、後悔や迷いはない。

「お嬢様…」

極楽は笑顔で大きく頷き、答えた。

「はい。絹様。卍丸ならきっと、絹様の幸せだけを望んでおりますよ。」

 

あの時檻の中にいた文鳥は、今は自由に空を飛んでいるのかしら。

 

絹は大空をのびのびと飛び回る文鳥に想いを馳せた。

その時は、きっと文鳥に寄り添って、蒼い頭の鳶も共に飛んでいるのだろう。

 

「極楽。では、参りましょうか」

 

絹は踵を返すと、極楽と共に屋敷の中に入っていった。

抜けるような青い空に、ほころび始めた紅梅がきらきらと映えていた。

 

(了)

2010.8.5